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  映像研究

最初の数日らしい

 
・最初の数日はいつも新しい。一年の最初の数日を新しい気持ちで過ごす。一年を跨いでももちろん時間が続いていることがわかる。とても良いことではないけれども、不安な情報が届くことによって、時間も空間も繋がっているのだなと思う。自分は何かを決断した結果として、この場所に、変わらないように住んでいる、というわけではないということを再確認する。新年は色々なことを再確認する。だから全く一年の最初らしくないような気持ちも抱えながら、しかしながら一年の最初らしいような気持ちも持ちながらの今。誰もが誰か何となく「1月1日には地震は起こらないのではないか」と思っているような時に地震が起こることについて。地上の色々と全く関係のないタイミングで起こりうることについて考えたりもする今。



・きっと誰もがこれまでとは違った時間の感覚を持って、持ちながら、しかし適当に忘れながら生きているのかもしれないなと、ふと思った新年。「新年」とか「年度末」とか「定年」とか「婚期」とかの時間感覚のなかに「24000年」とかが、文字として、声として、入り込んでくることによって(無意識であっても)人の行動や、精神と呼ばれるようなどこかの神経とかに、どういう影響があったり無かったりするのか、というようなことをふと思った新年。「24000年」という声を聴き続けながら、聴き続けることによって、目の前の「一日」だか「今月」だかを様々な判断をしながら過ごす。それもまた新しい。好ましい、とは決して言いづらいような新しさ。



・しかし、そこで思いついた言葉を、誰か隣にいる人に話しかけてみようとか思うことについて考えてみたならば、それは可能性になる。誰もが言葉をつくる。「24000年の意識」が折り畳まれたような言葉をつくる。他の人の言葉との違いによらずつくる。大きな声を出してたくさんの人を振り向かせるためにではなく言葉をつくる。自分のペースでつくる。その言葉を外に出してみることで、受けた反応から、またつくる。でき上がった(それは・いつも・つねに・途中である)言葉を携えて誰かに会いにゆく。その「会う」感じは2012年らしい。そのことに微かかつ確かな可能性を感じつつ今。暦の上では春。季節は冬。寒さ真っ盛りの今。