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  映像研究

夏の労働の続き

 
・夏の労働が始まって、そして続いている。全部で24日間あるうちの6日間が終わった。新しいことをするのは大変なのだなぁと思う。そして大抵いつも何かが新しい。だから注意して業務を行なう。そしてその6日間にも、例えば友だちが監督をしているCMの制作のお手伝いや自宅でのTシャツの印刷、後輩との飲食などしている。そして休日である今日の日曜日は大学院の友だちの舞台を観に行ったりした。言葉とイメージに反射的に意識を向ける季節。自分にとっての具体的な事柄は飛び去って行くかもしれない。具体的な事柄とは何か。それは例えば山であって、植物であり鉱物である。本を読むことが出来ない。朝起きて職場に向かい、そしてその日にやるべきことをやるだけで一日が終わってしまう。そしてそれは言葉の通りの意味で楽しいことでもあるのだった。一昨日の夜に酒場(と言いたい)で久しぶりに会った先輩は「自分がそれを手にするという意味での『権力』」について話していて、それがあまりにも最近自分が考えていたことだったから、普通に考えていたことをあらかた話してしまった。全く思いもよらないことだけれども、自分が話す言葉が今までとは違った「権力のような言葉」であるように聴こえて、誰よりも話している当の自分が驚くことがある。驚いているから「どもり」、そして驚きながら少しだけその力をずらそうとするだろう。しかしもしくは本当は言葉を話すことは権力のようなことと無関係でいられるわけがなかったのかもしれない。だから、いつか/誰かは、すっかり黙ってしまうこともある。黙らないことを、話し続けることを、話す準備をすることを、話す計画を立てることを、話すトーンを調整することを、それらをあるシステムとして働かせることを選んだ自分は、だからこれからずっとそのような力と関係していくのだなぁと思った、というこれも何の話なのか。しかしそこで「権力」あるいは「力」という言葉を前にして「毒食らわば皿まで」というような堕天使的な気持ちになることがない。そういう堕天使感が好きな人もいるのかもしれない。「汚れちまった悲しみに…」と(?)いつか/誰かは言うだろう。一方自分は、やりたくないことをやっている感覚がほとんどなく、すべてが偶然で、すべてが一期一会で、すべてが勉強で、すべてがラッキーだと思っているから、色々ある事柄から、より楽しそうで、そしてより安全そうな事柄を選んできたように思う。安全であるということは、楽しそうな事柄を続けられそうということでもある(熱い食べ物は少し冷めてからバクバク食べる/その方が美味しいと思うから)。昨日の夜に大衆居酒屋でひと回り年齢が若い後輩(大学3年生)が話し始める「リスクってことを考えるじゃないですか」という言葉に対して「あ、もうその最初の前提が既にわかんない」と答えながら「でも、ちょっと試しに続きを聞かせてください」と言うだろう。例えば自分が大学3年のときにはリスクという言葉は考えなかった。リスクという言葉はなかったのかもしれない。そして色々な理由があって、概念としての「就職」について考えている今日この頃。