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  映像研究

別の場所のイメージなど

 
・最後に山に登ったのはいつのことだったか思い出す。山登りらしい山登り。それは夏だった。夏の終わりだった。北アルプスへ行った。表銀座へ行った。それから半年程の時間が流れた。その間に陣馬山や高尾山にはハイキングのような感じで行った。それはそれでとても楽しい。でも山登りとは少し違う。山登りのことを思う。生活圏ではない場所を歩いているイメージ。広い場所のイメージ。程よい緊張感があるような一日の行程のイメージ。


・時々ふとインターネットの不動産サイトで部屋探しごっこをするのが好きだ。基本的には今の住居を気に入っているのだから、今の住居と似たような条件でありながら、しかし微妙に違う賃貸物件を検索してみて、気になった間取りを見ながら、その物件で生活することを想像してみる。「駅から徒歩20分」とか「閑静な住宅街」とか「ペット可」について、そのディテールを想像してみたりする。謎の珍物件が見つかるとちょっと嬉しかったりする。それは別の場所のイメージ。


・朝からの業務の時には新宿駅の「ベルクでモーニングプレート」。そして少しゆっくりでも大丈夫な日は高尾駅ドトールコーヒーでモーニングセット。ドトールのBGMはホテルのロビー?ラウンジ?みたいな、気にならないような、それでいてその場所らしさを演出するような音楽だけれども、ピアノのメロディがどこか聴いたことのあるようなものだったので「あれ?これなんだっけ」と思い出したならばそれはピチカート・ファイブの『ハッピー・サッド』という曲だった。真夜中のターン・テーブルで踊りたくなるようなソウル・ミュージックを聴くような曲を朝のコーヒーチェーン店で聴く。少し口ずさむかもしれない。


・JなPOP繋がりで、youなyubeでキリンジの『それもきっとしあわせ』を聴いた。初めて聴いた。そういえばこの備忘録的なものを始めて最初にリンクを貼ったムービーは鈴木亜美の『それもきっとしあわせ』で、それは2007年のまだ寒い春のことだったけれども、自分はその当時その曲を、ちょっと何かに憑かれたように聴き続けていたことを思い出す。「この歌詞を鈴木亜美に歌わせるって凄いなー」的なことを、確かどこかでライムスターの宇多丸という人も書いていたような気がするけれども、確かにこの曲にはどうにもこうにもぐっときてしまうようなところがある。単純に「歌いたい歌がある」っていう歌詞を歌うって凄い。決意表明を全力で演出(悪い意味ではなくて)する/されるという屈折と、屈折あってこそのストレートな表現。


・いずれにしても、キリンジの、どう考えても全然明るくないような曲が好きだ。『愛のcoda』とか。あるいは『Drifter』とか。それは自分にとって特別な印象を持つ音楽。この数年ずっと傍らにあったような音楽。そしてその音楽はずっと変わらず好きだけれども、今はまたそれはとはちょっと違う感じ方もしている。「不幸になっても構わない」と口ずさむことにも勇気がいるような気がする。わからないけれども。


・別の事柄。業務が一段落したらエスプレッソを作る器具を購入しようかと思っている。マシンというような物ではなく(それも「マシン」と言うのかもしれないけど)火にかけて使うような銀色の、あの、おじさんのマークの、確かビアレッティ?ベルルッティ?みたいな名称のあの器具。最近エスプレッソを飲むことが多いことに気がついたのだった。それも良いかもと。


・また別の事柄。毎年2月も中旬から後半になると「春になったらやりたいことリスト」を作成すること。そしてそのリストは大抵、あまり消化されないということ。


・別の事柄。去年の年末からしばらく旅行をしていた友達と何となくメールをしていたら、それが往復書簡的な感じになってきてちょっと面白い。面白いというか、備忘録とはまた違った物として、自分がある期間に考えていた事柄を読み返すことができるのもまた良い。基本的に普段ならばメールを送るのは「必要な連絡」をすることが目的なのだから、メールでも、手紙でも、その必要の範囲をちょっとずれたところにある言葉や、その言葉が生まれるような気持ちを発見することはちょっと面白い。そういえば熊本へ引っ越した友達から貰った手紙もちょっと良かった。「春になったらやりたいことリスト」に手紙を書くことを加える。


・少し別の事柄。手紙が届くことを不思議に思うような気持ちそのままにどこか別の場所へ、自分のからだが向かうことを想像する。旅行に行くことは面白い。2012年の今、東京に住んでいるということを理解するためにも色々な場所へ旅行に行きたい。「春になったらやりたいことリスト」に旅行に行くことを加える。


・別の事柄。あと一ヶ月ほど経ったならば、3月11日になる。地震が起こった日から一年が経って、一年が経ったからと言って何かが変わるということではないけれども、ともかく一年になる。その一年を年表のようなものにしてみることも面白いことかもしれない。興味深いことかもしれない。任意の点と任意の点で区切られた時間。その前にもその後にも時間はある/あったとして。その場合、始まりの点には必然があって、終わりの点は「とりあえず」。その書かれた何かを他の人と見せ合って、見せ合った何かを元にして話し合うことも、何かになるかもしれない。何かの確認と、もしかすると、何かのきっかけになるかもしれない。


・例えば。何かを知る。リアクションとしての考えが生まれる。人と会う。約束して会う。あるいは完全に偶然に会う。会った結果集まる。集まったならば話す。食べたり飲んだりする。一人になる。本を読む。本が積まれる。何かを知る。情報を知る。調べる。偶然に知る。また会う。何かを教えてもらう。あるいは何かを教える。出来事の複数の見え方を立体的に組み上げる。組み上がった立体を壊したり壊されたりする。話を聞きにいく。授業のような場へ行く。リアクションとして聞いた話を元にまた別の話をする。本を読む…


・その年表のような物には数え上げることが出来ないほどの出来事が書き込まれていて、そして同時のその全体が出来事でもあり、そして出来事の中にはまた出来事が含まれあるいは重なり合っている。そして全く自分の関わりようなない種類の出来事は起こる。起こり続けている。でもそれはそれ。年表はある。


・少し違う別の事柄。「新しいものをつくること」と「直すこと」のあいだには、どれくらいの違いや、どれくらいの重なり合う部分があるのか、とふと考えた。完全にふと。


・「新しいものをつくること」を肯定したり、あるいは褒めたたえたりすることは簡単で、簡単ではないかもしれないけれども、それがイメージとして「良き事」であることは想像できるような気がする。では、そうであった上で、そのとき、その「新しいものをつくること」は、何と対比され、区別された上で、肯定されているのか。例えば考える。