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  映像研究

移動する肉体・移動した先には空間

 
・朝起きて横浜方面へ。高尾から八王子。八王子から横浜。横浜から赤い電車に乗って数駅の黄金町へ。展覧会の搬入をしているAちゃんの手伝い。インスタレーションをインストールする手伝い。ひとつの区切られた空間に映像、オブジェ、動くオブジェを、置いたり、吊ったり、照らしたり、映したり、浮かべたりする作品の設営の手伝い。この展示は実験です、と作者は言っていたけども、凄く面白かったので「代表作だね」と言ったら本気で少し嫌な顔をされる。良い意味で言ったんだけれども。でも「代表作」は言い過ぎたかもしれない。「名作」でした。


・言葉について考えていて、言葉には色々な種類の、色々な機能の、色々な機能を越えた、色々な状況を変化させる言葉があると思うけれども、展示してある美術作品を見ていても、色々な種類の、色々な機能の…と考えることがあって、例えば演説をするような、一点から、台の上に立って、大勢に一生懸命にスピーチをするような作品というものがある(ような気がしている)一方で、空間の色々な場所で、制作者の言葉が囁かれているような、今日あった「少し良かった出来事」について友だちに話しているような、そういう言葉がこだまするような、反響するような、重なってひとつの言葉としても聞こえる瞬間があるような、そういう作品というものもきっとあるのではないかな、と思ったりしている。


・そしてその後者のような作品が(作品も)自分は大抵凄く好ましいと思ってしまう。例えば「部屋のような作品」がある。この場合の「部屋」とは例えば「徹子の部屋」だ。ソファに座ってお茶など飲みながら最近あったちょっと良い話をしたりする。考えてみたらあれは一体何なのだろうか。凄いティーヴィー・プログラムだ。でもとりあえず部屋は良い。人間はいつも演説とか、あるいはいつもポエトリーをリーディングしたりとかしているわけではないのだし。部屋では普通にコーヒーに入れる砂糖の量とかに気を配っている。


・それで赤い電車に乗って横浜を経由して新宿まで戻ってきて業務。行事を迎えることで季節の移り変わりを意識する程度にはスクールだ。終了後思い立って銭湯。銭湯は大抵良い。露天があると尚良い。数日前に買った『マーマーマガジン』と、ずっと読んだり読まなかったりしていた『破局と渦の考察』を鞄に入れて、再び読んだり読まなかったりしている。職場の後輩に「本を全然読めなくなる時期がある」という話をしたら「人間にはそういう時期もあります」と慰められた。慰められている場合なのかどうか不明。早起きして本を読み、そして午後からはフェスティヴァルの準備をする、というのが自分にとっての理想の10月。理想と現実。これは現実。これは理想。