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  映像研究

名前を呼ぶ

 
・Kの団について。一昨日部屋を掃除していたら、無くなったと思っていたポケット・ラジオが見つかった。ペンケースの中から転がり出てくるポケット・ラジオ。早速アンプに繋いで久しぶりにラジオを聴く夜。たまたま受信したラジオの情報番組のテーマは「経団連とは何か」というもので、ちょっとテンションが上がりつつ晩ご飯を食べながらそれを聴く。「経団連」という言葉が電波に乗って色々な人の家に届く2011年の11月。番組は「経団連という組織は原発やTPPについて推進という立場だがそれは一般の人の意識とはかなり距離があるのではないか?」という内容で、女性キャスターは露骨に「(経団連って)そもそも何なんですか?」と声を荒げている風だった。



・言葉になる、ということは、それが意識されるということだと思う。例えば自分がこの数年に感じたことで考えるならば、確か2007年くらいに一斉に「資本主義」という言葉が、話されたり、書かれたりしたのではなかったか。恐らくは数十年ぶり(?)かもしれなかった「マルクス・ブーム」が起こり、誰もが誰か「そういえば『資本主義』っていうのも、ひとつの『主義』なわけだよね…」と話しはじめた。「ひとつの『主義』だってことは、他の選択もあり得るってことなのかどうなのか…」とぼやっと考えはじめた。それは、何か違和感を感じている状態に対して、言葉を与える、名前を呼ぶ、指し示す、ことだったのか。どうなのか。そしてあらゆる思考はそのように、何かを名指すことからはじまるのかもしれない。無意識だったとしても、名前を呼ぶことでその対象が他の対象と区別される。そしてそれが「任意の対象」であることを知る。



・思えば「電力会社」だって、この2011年には名指されたのだった。今までまったく自然環境のように、ぼんやりと「電気を送り届けるネットワーク」と思っていた存在に対して、誰もが誰か「東京電力」と呼んだ。時に「東電」と略したりして呼んだ。声に出した。名前を呼ぶことによって輪郭を描こうとした。色々な気持ちを込めて、色々な人が、色々な場所で、何度も何度も電力会社の名称を口にした2011年。



・そしてまたある対象の名前を呼び、それが「任意の対象」であることを知ったならば、それは「自由」になる、ということなのか、どうなのか。「電力の自由化を」と言う。自由化とは「それが絶対ってことじゃないですよ」という「自由」でもあるならば、それは「電気は既存の電力会社が絶対ってことじゃないですよね」ということなのか、どうなのか。しかしその「自由」の元では新たに自由な競争も行なわれるのだろうか。意識された対象は他の対象と比較されるのだろうが、いったいそれがどのような新しい制度を生んだり生まなかったりするのか。考える。もしもこの先、じゃあ例えば「水道」が自由化されたならば、クリーンで、安心な、放射性物質が全く入っていない、お子さんがいる家庭にも確実に安全な水を送り届ける水道会社が、たとえ水道料金が割高でもモテモテになったりするのかどうか。そして、しかし、そのとき「あまりお金がない人」は、どんな水を飲んで生きるのだろう?



・ぐるっと一周してKの団について。経団連という連は基本的には「自由化」を促進した方が良いと考えているようなのだった。そして、そのとき「経団連」それ自体を名指す、任意の対象とするようになる、「経団連」がトレンディなワードとなることととは、つまり、あるいは、もしかすると、誰もが誰か「自由化」と「自由」について考えることなのかもしれないと思う。「『自由』と『自由化』って同じものなのかね?」「っていうか『自由化』って本当に『自由』なのかね?」「『自由化』って言うから何となく良さそうだけどそれって『企業化』ってことだよね?」「『企業化』ってことはどんなに選挙やデモで頑張っても、最終的には企業の都合(利益)で決められちゃうってことだよね?」「そもそもグローバル企業って、それ国関係ないからもう法律も憲法も無意味だよね?」などなど。



・そして、そのとき「じゃあ本当に『自由』であるとはどういう状態なのか?」と誰もが誰か考え始めるというのは、それは全く現実的でないことなのか、どうなのか。あるべき社会の状態について、思い思いに理想を言葉にする。その言葉は名前をつけることではないかもしれない。