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  映像研究

冬の朝、雨

 
・201812171023。家で荷物が届くのを待っている午前中。コーヒーを淹れて飲みながら部屋を片付けながら考えながら出かける準備をしている。午後には雨が止んで晴れるという予報だけれども。


・年末だから一年のことを振り返り、振り返ることで一年前の今のことを考え、大して変わらないなと思って、ではどこまで遡れば「変わる」のかと思うが、わからない。わからないけれども、2018年が終わる。2018年になったときに考えたことは、「2008年から10年が経った」ということで、2008年があったから現在がある、という法則はいつも、どこの時間にも当てはまりはするものの、2008年という点は特別であり、あり続けている。いつでも思い出すだろう。2008年、2010年、2011年、2013年。それぞれに思い出すトピックが明確にある。一方で、2015年、2016年、2017年を考えてみても、思い浮かぶ出来事がない。


・誰かがなした大きな仕事も継続的な仕事も凄いと思うことが多くなった。ひとつの作品にではなく、続けていることの凄みのようなことを考えることが多い、2018年。一昨日大学の恩師が演奏するイベントを見に行ったことも響いた。友人がずっと続けているイベントに昨日遊びに行ったのも良かった。時々会う友人たちがしている仕事にも触発される。色々なことが変わり続ける中で、その変化を感じながら、それでも続けること。結果的にそれが「表現」としか言えないような何かであること。そういう事実を考えて敬虔な気持ちになる年の瀬。


・そうした中でさし当り自分は自分にできる限りのことをする。何かを「わかる」ことを大切にしなければと思う。いつでも自分がしていることは小さく一瞬で消えてしまうなと、マッチ売り的なニュアンスで想定しているのはナイーヴにすぎるだろうか。あるいは「周回遅れ」のような気持ちと、信号が青に変わる直前のギリギリに一番早く駆け出すイメージをいつも両方持っている。同時に論文を書くことを目的にしている数年は、誰もいない、走るためでない場所で、わけもわからず/闇雲に、からだを動かし続けているような感覚もある。


・単純に自分が「良い」と思う何事かが、全然誰にも通じないという感じが深まってきているように思う。それは「面白い」とか「美しい」とか「正しい」とか。色々な「良さ」において。ずれているな、と感じることが多い。そのずれている理由も説明できるように思えてしまうことも不思議だ。しかし説明とは大抵の場合言葉でなされるもので、だからこそ「言葉とは何か」ということを考えているのだけれども、言葉による説明、言葉以外の説明、説明が難しいが伝えられるのではないかと思う事柄、色々とある。まだある。それを然るべき方法で表現する、というよりも「残す」ということを、2018年の終わりに始めたい。


・雨が止んで、荷物が届く。