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  映像研究

ある散文

 
菊地成孔という人の『粋な夜電波』という番組のポッドキャストを聴いていて、その番組は10月でひとまずの最終回であるということで(10月からは別の時間でまた続くらしいということで)番組の最後に、菊地成孔という人が、アントニオ・カルロス・ジョビンの『三月の水』の歌詞を朗読していた。番組が構想されたという今年の3月と、今の時間、そしてこれからの時間、そのあいだに思いを馳せつつ、その散文の朗読を聴く。枝、石ころ…


・言葉を選ぶことが、何かを確かに見ているような、言葉を発することが、目の前のものに指先で触れているような、そういうひとつひとつの物、現象、出来事を確認するための、自分(という意識があまりないけれども)と繋ぎ止めるための散文というものがあって、それはシーンごとに時間の幅を持っていて、その連なりもまたひとつの時間を持っていて、大抵良い。


・その言葉のつらなりを、図鑑のように、とか、カタログのように、とか、そういうイメージの何かとして考えたりもするけれども、手のなかに一度に色々なものを収めたいという気持ちとも少し違っていて、子どもが、色々なものに触りながら散歩しているような(傘の先で手すりを触ったりする)、電車に乗っていて見える風景の中で見つけたものに向かって、指を言葉を投げるような(トラック!とか言って指差したりする)、そういう言葉のつらなりというものがあるような気がする。自分が動いている。


・「俯瞰すると同時に流れの中にも内在している/流れの中に内在しながらしかし俯瞰している」というようなことを、少し前に読んだドゥルーズだかベルクソンだか、どちらかの解説書だかに書いてあって「ああ、そういう感じってあるな」と思ったりしたのは、自分の場合は、映像とか、散文とか、写真を連続してみることとか、そういうことに意識が向いているときに感じることで、それは大抵良い。あるいはポップスのように構造がしっかりあるものの中にも、一瞬そういう流れが見えたならば、それも大抵良い。


・そしてそのひとつひとつの「物」に触れながらも、その「流れ」に逆に自分が触れられているような感覚になったりならなかったりして、それは「力」を強く感じるということで、その力は大抵良い。というか色々な良いことや、もしかすると色々な悪いものでさえも、大抵がその力だ。時間にも似ているけれどもかなり違う。季節の変化とか植物の成長とかを丁寧に感じようとすると一瞬見えたり見えなかったりするような力について。


・ある物からある物への意識の移り変わりに秘密があるのかどうなのか。枝、と、石ころ、のあいだ。