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  映像研究

毎日毎日風景が変わる・更新について

 
フェイスブックしている。自分のフェイスにカーソルを合わせると「なにがし」と表示されることにも少し慣れてしまった。慣れてしまって良いのかどうかは不明だけれども、そういうものだと思ってしまった。それが嫌になったならばやめれば良いのだと思う。いつでも、何でも、誰でも、あらゆることを「やめる」ことができる。その上でやめないこともできる。そして、しかし、大抵の、ほとんど、すべてのことは、そんなことを考えずに、そんなことを考えないということによって、自動的に更新されている。考えてみたならば「更新される」ということも不思議だ。


・それで午前中にそうだったそうだったと慌てて業務に関連した見ておかなければいけなかった映像を観る。1966年の映画。人間が話したり走ったり、きっと怒ったり愛したりしているのだけれども、フィクションであれその光景をいま自分が、高尾で、部屋で、DVDで、imacで、ごろっとしながら観ていることも不思議だと思う。それは何かが更新されているのか。どうなのか。


・午後から出かけて三鷹台の事務所にて引き続きフェスティヴァルの準備について。そういえば当日まであと20日くらいとかなのだから、その20日後の、10月の終わりの、高尾の先の山の、空気の感じを想像しながら、構想した事柄を、言葉やイメージとして、誰かが開封するものとして、まとめてみる。あるいはまとめられない部分は、どう、なぜ、まとめられないかについて考えて、その考えた事柄もまた、言葉にしたりしてみる。労働ではない何かをしている。何なのかは不明。しかし真っただ中にいる。入りかけている。


・そして夜には突然のお誘いをうけて吉祥寺はアムリタ食堂にて「国立会(?)」の集まりにお邪魔する。マーケットでちらりと顔を合わせて挨拶をするSくんや、半年ほどタイムラインという名のバーチャルなスペースちらりと見かけていた人たちとも直接話せて良かった。マッサージ転じて占いの人の話が非常に興味深い。帰りの車中で西東京(武蔵野平野)の寒さについて語り合いつつ、いっそのこと国立に住むことを勧められたりしもして、一瞬「良いかも」と思ったりもする。24時帰宅。