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  映像研究

SU・SO・NO

 
・すその、と声に出してみたならば、それは裾野。山と平地の間。山が山らしくなる前の場所。高尾に住み始めた頃はよく「裾野」と思っていた。裾野に住む感覚というものが多分ある。山はすぐそばにあってだけれども普段はあまり意識しない。特に夏ともなろうものなら(暑いからあまり上を見上げないからなのかどうなのか)すぐそばに山があることを忘れている。それで季節が変わって秋になって少し涼しくなって空を見上げられるようになったならばそして振り返ったならば突然視界には山。「いつからそこにいたの?」でくのぼうの人のような再会。そして再開される風景。繋がる一年。京王線高尾駅のホームに立って裾野の裾野らしい様を見たならば、いつもこの風景を見るために(だけではないけれども/例えば飲み過ぎても乗り過ごさなくても良いとか)この場所に住んでいるのだなと思う。風景のファンだ。そしてそのようにして日々色々なもののファンになる。ファンになる、ということは単にその人やその物が好き、ということだけではなくて、むしろ「ちょっとだけその人やその物になりたい」と思うことなのではないか、というようなことはどうだろう。思い返せば高校生の頃一番よく見ていた写真家の高橋恭司という人が吉本ばなな(という表記だった・90年代の90年代らしい記憶と記録)との対談で「女性を撮影しているとその人のファンになってちょっとその人が入ってきちゃう」というようなことを多分言っていて、その頃は「そんなものかぁ」と思っていたけれども、今ならば少しわかるような気がする。そしてそれは女性でなくとも人でなくとも生物でなくとも物体でなくとも「風景」に対してそのような気持ちを持つこともあるとかないとか。裾野を見ているときにちょっと「裾野になりたい」と思う。指でなぞるように目で辿る線。その線の少しでも欲しい。自分のからだに欲しい。曲線、ごつごつした線、こんもりした山の何か。そういうものにわたしはなりたい。かもしれない。ファンだ。だから京王線に乗るために高尾駅のホームに立って、しばらく電車がこなかったならばそれもまた良い。しばらくは眺める。電車がやってきてその思考、その想像?その交流??が遮られたならばヘッドホンで音楽を聴いてたりしてほとんどすべてのことを忘れる。