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  映像研究

抽象と映像の夏、2012年の8月・その15

 



・まだ観ていないけれどもこれから観たいと思っている映像がある。ストローブ=ユイレという人たちの『すべての革命はのるかそるかである』は1977年の映像で、どこかの本の何かの文脈でその存在を知った。インターネットで調べたところ(便利だなぁ)「ステファヌ・マラルメの革命的な詩「賽のひと振りは決して偶然を廃棄しないであろう」を、1871年のパリ・コミューンの闘士の最後の拠点となったペール・ラシェーズ墓地の芝生に座った、様々な言語を母語とする九人の男女が代わる代わる音楽的に朗読する」という内容だった。


・ところで朗読する映像が気になっている。朗読する映像の系譜というものがあるのか。ないのか。どうなのか。手紙を読むような映像が好きだ。映像は、映像だけでなく音声も記録することができる。映像の場所に響く音声も、映像の場所とは別の場所に存在した音声を響かせることもできるということをあらためて考える。


・「衣」とか「食」とか「住」はファンタスティックなことだと思う今日この頃。「衣」とか「食」とか「住」を記録することも別の意味で同様にファンタスティックなことだと思う。例えば自分が今の家に住んでいること、高尾に住んでいること、そういう感じを反芻するために、自分は部屋や、家や、庭の植物や、家の近所の住宅や、裏の山や、裏の山に行く途中の川や、そして高尾山の裾野の風景や、京王線高尾駅から見る景色や、他にも色々な見えるものを記録しているのかもしれない。


・そのようなことを貴重なことだと思い、記録したいと思った。その写真や映像には、どんな音声が響くのだろうかと想像する。想像する季節は秋。「衣」とか「食」とか「住」について考える秋。