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  映像研究

夏の風景

・201908070908。図書館に来た。9時に開館すると同時にわらわらと人が集まってきて教科書だか参考書だかを開き始める光景はちょっと良い。自分も少し遅れてその流れに続き、大きなテーブルの端に席を取ってmacbookを開く。図書館が見渡せる位置から。見渡せることが良い。人がそれぞれに何かに集中している様を見ることが良い。窓の向こうに風景が見えることも良い。風景について。

 

・家の窓から見える風景は今日も変化している。昨日想像していたよりも早く、大きな木が先端から少しずつ切られていく。緑の葉を茂らせた枝が取り除かれていく。出張中の家族は帰ってきたらそれを見て悲しむだろうか。そういえば職場の近くにあった街路樹でさえも少し前に切り倒され、どうするのだろうかとしばらく気にしていたら、少し背の低い新しい街路樹が植えられていた。緑の場所には灰色が置かれるだけではない。新しく人工的な緑が置かれることもある。そうして少しずつ存在の意味から離れていく。

 

・自分が「風景」と「写真」について考えていたのは、そのようなこととも関係している。風景を見ることとは何か。「風景」と思いながら、ある場所に身を置くことは何か。何か、と問うてみて、それを言語化できることは言語化するが、言語化以外の方法が適切ならば、写真を撮り、写されたイメージを提示するだろう。風景という思考は記号から離れていく運動である。風景とは人間以外の存在と出会う一つの方法と言える。いま「記号」と「存在」を対立させてみて、しかし本質的に写真には記号など映らないのではないかと考えることもできる。広告は必死にイメージを囲い込み20世紀のうちに完璧な記号のような写真を成立させた。現代の芸術写真の多くはいまもなおそのことを呪い、それを擬態し、どうにかしてそれを笑おうとしているように思える。その仕事の価値を理解しながらも、愚直に存在=写真の意味を問う仕事があってもよいと最近は考えている。これは退行か、あるいは保守か。

 

・そういえば今日は誕生日だったので、一番贅沢なことをしようと思って朝から図書館に来た。一日本を読み外国語を勉強して、ともすれば事務的な発話以外に誰とも会話をしないかもしれない。でもそれが何よりの贅沢だと思う。いつも言葉を話すことを労働の価値の源泉ということにしているから、言葉を話さないことは、思考を自分に向ける態度でもある。

 

・昨日は労働の帰りにふと思い立って、高井戸へ降りてみた。高井戸と荻窪の間のアパートに住んでいたのはもう15年近く前のことで、このテキストをかつてのダイアリーに書き始めたのもそういえばあのアパートに住んでいた時期だった。駅から相当に離れたあのアパートの前まではさすがに歩かないが、当時よく行っていた駅前にある入浴施設に立ち寄ってみる。時々は記憶の場所を再訪するのも良い。かつてその場所にいた自分と現在の距離をはかる。「高井戸」という地名を思ったのは、駅のホームの下を環八が通るその風景について書かれたオンラインの記事を読んだからだった。その風景を覚えていたが思い出すことはなかった。高尾に引っ越して京王線高尾駅のホームから見る風景は覚えていて時々思い出す。日々見る風景について。

 

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