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  映像研究

あるドキュメント・思いだすことの面白さ(あるいは快楽)・みなちが

 
・昨日につづいて業務。淡々と、粛々と、年内のスケジュールを、タイムラインを埋めていくような作業。



・それで夜は家に来客。SMDくんとT夫妻がやってきて先月20日の『街のつどい』の反省会&10月のフェスティヴァルの構想&more。SMDくんが約3時間のつどいの発言をほぼ文字起こししてくれていたので、それを聞きつつ、つどいの「つどっている様子」を思いだす。ポップスターではないという意味での99%以上の「普通の人」にとっては「自分の話したことが後から示される」ということなんてなかなかないのだから、まずはそのこと自体が面白く、また「ぼんやりとした、あるグルーヴ」として記憶されている感じが、その時、その場所で、誰のどのような発言を積み上げることで生まれていたのかを知ることはとても新鮮だ。



・それでその文字としての記録(ドキュメント)から「話されている言葉」を聞いて、またその傍らに存在したはずの「話されてない言葉」を想像する。いつもの/いつかの何気ない集まりであれば「ぼんやりとした、あるグルーヴ」のまま消え去っていただろうけれども(それ自体はもちろんとても良い/比べるもんでもない)、このようにしてもう一度別の場所に、記憶として戻ってくるのならば「口伝」という記録(ドキュメント)だって、それはなかなか凄い力を持っているのだなぁと思うし、あるいはまた、10月のフェスティヴァルにおいてやってみたら良いんじゃないかと思っているイベントだって、もしかするとそもそも「口伝」だ。



・地図を見たい。「共有なるもの」(『新しいアナキズムの系譜学』から)としての、現実の場所を、場所同士の関係を、場所が繋がっていることを、見たい。そしてその現実の場所を移動したことを思いだして、移動したことを表現して、移動したことを想像したい。そして移動の跡を指で辿る時に何が起こっているのかと考えてみたならば、そこでは超複雑な思考が働いているような気がする。移動することは「生きていること」そのものなのだから、かつては、それが完全に自由で、そしていつかはそれが限られた特権的な行動で(完全に自由であることは危険であるとされていたのかもしれない)、そして現代は、未だに限られた特権的なものであると同時に「超・自由」であるように思えるならば。



・だからもしかすると「『移動すること』について意見を交換すること」は、見えなかった(見なくて済んでいた)同じ国と呼ばれる近い場所に住んでいる自分たちの間に存在していた「境界」を意識させる、微妙な「社会的な属性」を意識させる、という意味では、楽観的な事だけではないのかもしれないな、と思ったりもする。だけれども、その「境界」を知って、微妙な「社会的な属性」が浮かび上がって、何かを考える、ということには、きっと多分、相当に意味がある、とも思う。「みんなちがってみんないい」(略して『みなちが』)は八王子のフェスティヴァルの名称だけれども、もしもそのテーゼにぐっとくるならば、その「みんなが良い」ことの<前提として>「みんなが違う」ということを知ることも大切だと、あらためて思う、というこれはしかし一体何の話だろう?



・そしてだから「みんなが違う」ことと「みんなが良い」ことが同時に感じられるような、というか「みんなが違う」からこそ「みんなが良い」ということを、確かに感じられるような「つどい」とは何だろうかと考える(ここ大事)。道徳の授業みたいになって参りました。そして人間には歴史があって、歴史とはそこから学ぶためにあるので、ここでもドキュメントを参照する。今読んでいる『表象』という雑誌の「05」では、特集「ネゴシエーションのアート」の中でクレア・ビショップという人がニコラ・ブリオーという人の『関係性の美学』という概念について、それを主に批判的に検証している。その「敵対と関係性の美学」という文章なども読む。



・それで気がつけば突然「アート」になった。「アートの話題」になってみた。しかしそれは「アートの話題」風ではありつつも、それをなるべく「現代美術」というシステムの問題ではなくて(もちろんそれを無視するわけにもいかない)可能なかぎり、より広い「表現」の問題として、あるいは「生の表出/実践としての芸術(とか言ってみた)」として、捉えてみる、みたいなことが前向きで、尚かつ面白そうじゃないかと思ったりもする今日この頃。