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  映像研究

フェスティヴァルを構想する夏の夜

 
・夏。もしも小学生であったならば宿題のことがちょっと気になりかける夏休みも後半の8月20日は土曜日の夜。去年の秋に開催されたフェスティヴァルをきっかけにして集まった人たちによる「フェスティヴァルを構想する会」あるいは「サマー・キャンプのニュアンスをアレンジしたサマー・パーティー」あるいは「マウンテンのミーチングのためのミーチング2011」(略称:MTMTMT)。サタデーのナイトにひっそりと熱いフィーヴァー(狂騒)をするべく都内某所の事務所をお借りして集う。夕方からフライング気味に事務所にお邪魔してこっそりとした準備を始める。



・それで集まった。集まりの名称は呼びかけ人のひとりであるSMDくんの提案で「街のつどい」。集まりは集い。「つどい」って言葉は良い。スナックみたいだ。歌を歌いそうだ。こぶしを回しそうだ。そしてパーティーのメニューは「寿司をお腹いっぱい食べたい」という自分のドラ息子のような提案から食事担当チームのミラクルな「いなり寿司・太巻きカリフォルニアロール」という豪華3点セットが完成。完成度が高すぎて感動。その他作ったり持ち寄ったりした食べ物で食卓は狂騒。20名程度が集ったならば乾杯をして各種交流と自己紹介。去年のフェスティヴァルには来られなかった人たちも参加して賑やかな夜になる。



・そして21時くらいから「つどい」のMTG部分がスタートする。第一部は去年のフェスティヴァルの様子をスライド・SHOWしながら解説。そして「では一体今年は何をどのようにやったら更に面白いフェスティヴァルになるのだろうか」と意見を交換し合う予定。しかし予定は未定。「キャンプファイヤーをやったらそれはもう面白くも素敵な夜になるのではないか」というアイディアとそのディテールから話題は完全に脱線。ファシリテーター(という言葉を最近覚えた/けれども意味が合ってるのかどうか分からない/なりにそのように振る舞ってみた)としては脱線の脱した線、大きく弧を描きつつ逸れてゆく線を追いかけつつも、そこで交わされる会話にも意味を感じつつも、もう少し話題を別の方に展開させても良かったのかもなとやや反省。それでも興味深い意見が聞けたことは良かった。



・そして23時くらいからは第一部と緩やかにクロス・フェード的に第二部がはじまる。第二部はフェスティヴァル・座学部からの提案。ラウンド・テーブルならぬ「ラウンド・日本地図」あるいは「ラウンド・タイムライン(模造紙)」。山部としてひっそりと意識の下で考えつつも、実践し続けていたテーマであるかもしれない「移動」について、今だからこそその体験をシェア(って言ってみた)するためのワークショップ的なものの原案の実験。床に貼られた大きな日本地図を見ながら「今年の3月以降に、どこに、どのようにして、移動したのか」をみんなで書きこんでみるという趣向。北へボランティアへ向かう人あれば、西に新しい生活を求める人もあり。もちろん色々考えながらも東京で暮らしを続ける人もあり。落ちつかない日々にそれでも山に登る人もあり。そのようなそれぞれの思いと経験を、その出来事のまま、何かの判断をするのではなくてあくまでも「ある出来事」のまま、並べて、あるいは交差させることはできないか?という実験をする。



・それで話は意図せず(まったくしてないってわけでもない)そのような2011年の移動の起点(ポイント)としての「3月11日に、どこに、どのようにして、居たのか」について、恐らくは数ヶ月ぶりくらいに話した。初めて会う人の「3月11日」と、何度か会っている人の初めて聞く「3月11日」と、何度も会って何度も聞いたけどまた新しい気持ちで聞く「3月11日」が、色々に、自由に、語られるのは不思議な事だ。「意外と近くにいたのだね」とか言い合いながら「3月11日」と、その数日間の記憶を語ってみる時間。普段「フィクション」という意味での「物語」にはあまり興味を持てない自分にとって、しかしこのような「自分が体験した出来事」を話すこととしての「物(を)語(る)」行為には、新鮮な感じを覚える。あるいはまた、それから数ヶ月間の出来事として、Sくんが福島へボランティアに行った体験についても、本当はもう少しじっくり聞きたかったな、と思いつつ、終電の時間とともに第二部も緩やかに終了。



・そして25時からは終電帰宅組を見送りつつ、畳でごろ寝しつつ、残ったちょうど10人で第三部がはじまる。第三部は完全に偶然。偶然且つずっと見てみたかった映像を見る時間。あるいはまた第二部の「移動」の具体的な事例としてのホーム・ビデオ。熊本で新生活を始めようとしているT夫妻の(家探し?の)旅の記録映像を見る。イントロにしてはインパクトの大きすぎる佐賀県庁の玄海原発稼働の抗議集会の映像から始まって、車で移動する熊本の風景。山や川や田の風景の映像。そして熊本に移住した人の暮らしている様子。住んでいる家。部屋。生活している様子。遊んでいる子ども。「これって何?」「これってどういうところ?」「このときどう思った?」など聞きながらみんなでその映像を見る。



・そしてその映像は「映像としても」とても良かった。そういう言い方から想像されるようなアイディアとしての技巧的な演出があるとかそういう意味ではなくて、それが恐ろしく「見やすい」映像だったことに、カメラを持っていたWちゃんの力量を感じてちょっと(相当に)驚いた。しかもほとんど無駄がない映像なので連番のファイルをそのまま再生するだけで、ちゃんと場面が展開していくという普通に考えればあり得ない記録だったのでちょっと(相当に)震える。それはきっと誰もが気がつくはずの驚きのような映像で、自分はその映像を見てこっそりと『おばさんたちが案内する未来の世界』のことを思いだしたりもしていた。あれは、もしかするとこういう映像だったのかもしれない。



・そうしてパーティーのような、ワークショップのような、宴会のような、遊びのような、集まりは眠りとともに静かに終了。ファシリテーター(という言葉を最近覚えた/けれども意味が合ってるのかどうか分からない/なりにそのように振る舞ってみた)としては、気がついたこと、気がつかなかったこと、気がつきたかったこと、反省、ひらめき、色々とありつつも、このタイミングで「集まりのための集まり」を実現することができてよかったと思いつつ、いつもいつでも、カレンダーを見ていて「ああ、その日が来てしまったならば、本当に夏も終わりだなぁ」と思ってきたその日が本当に来てしまった刹那さを感じつつ、夏の終わりの秋のような雨。きっともうすぐ秋雨前線がやってきたならば秋。そしてその向こう側には天高く的な秋晴れ。その空の高さと空気の感じを想像しながら、新しい場所をイメージする。