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  映像研究

その心・正しい記録・ケミストリー

 
・「○○は××である…その心は、」というフレーズを初めて聞いたのは、この国に住まわれている99.9%の方と同じように『笑点』というテレヴィジョンのプログラムであるのだけれども、笑点はさておき「その心」はちょっと良いなと思う今日この頃。流行らないかな。何か言ってみた(とりあえず言っちゃった)系の発言をした人に対して、合いの手のように「その心は、」と被せてみるトレンド。何かずうずうしそうなのに「心」なんていう可愛らしくもある言葉が出てくるあたりのバランスが良い。あるいはまた関係ないけど最近「腹」っていう表現も良くって、完全にイメージだけれども西洋?とかだと「胸」って言いたくなるようなニュアンスが非西洋圏のとある場所では「腹」。「腹に一物」とかはかなり良い。またそのように考えると「腹から声を出す」という表現とかも単に発声の仕方についてではなくて、もう少しメンタルな特性のようにも思えてくるとか(こないとか)。



・それで「腹」とはまったく関係がないそもそもは「○○は××である」について考えていたのだった。「仮説」を立てること。仮説を立ててみることからしか思考は始まらないので、本を読んで「凄いなぁ」「偉いなぁ」と感じ入ることから、一歩別の方法へ踏み出すのならば、それは「自分でも考えてみる」という意味で「自分でも『仮説』を立ててみる」ということの面白さに気がつくということかもしれない。自分が何か言ってみた(とりあえず言っちゃった)系の仮説を投げてみて、それが目の前に転がっていることから、その転がっている様子にはっとすることから、慌てて(あるいは慌てなくても良い)「…その心は!」と言うための思考が始まる。多分始まる。運が良ければ始まる。始まると良いなぁ。


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・「ドキュメント」ということを主題にしてみようかと思う。「ドキュメンタリー」や「ドキュメンテーション」を含みつつも「ドキュメント」。「ドキュメント」の語源は何だろう、と思いながらインターネット。それは「記録すること」と言い換えられるのだろうか。「記録する行為」と言い換えられるのだろうか。行為と言って良いのだろうか。もっと複雑あるいはもっと単純なことなのだろうか。日本語の「記録」と「ドキュメント」のニュアンスの違い。何となく「記録」が、ニュアンス的に「自分の外に記された動かない物質的な何かが在る」というような感じがするのに対して「ドキュメント」はもう少し「あり方」というか、自分の周り(空間的/時間的)に緩やかに漂っている気配のような何かを想像させられる、ような気もしないでもない。すべてが完全にニュアンスofイメージだけれども。



・それでいま立ててみたい仮説は「ドキュメントは××である」という仮説(問い)で、だけれども「××」には一体何が相応しいのか。イメージだけがぼんやりとあって言葉にはならない。ドキュメントの持っている可能なかぎり広い意味での「機能」について考えてみたい。しかしわからない。



・現代的な芸術についても考えてみたいけれども、それもまた「ドキュメント」という広い概念の中の、ひとつの「方法」「表れ方」のように思う。芸術が絵画という「平面」、彫刻という「立体」、あるいは「空間」、そしてインスタレーションという「状況」を提示することから、もう一歩進んで「行為」をも、その対象としたのはきっともう数十年も昔のことだとして、そこから更に「ドキュメント」が問題となってくるのだろう、というのはついこの間「アート・ドキュメンテーション」についての文章を読んだからだ。



・すべての芸術が「アート・ドキュメンテーション性」のような性格を持ってくることと、すべての人が何らかのかたちでライフ・ログのような記録をしようとすることは、同じ時代の、同じかどうかわからないような欲望のような何かによって生じている(これもまた仮説)。のだとするならば、それは何よりも「時間」の存在(あるいは非存在)に意識的になることなのか、どうなのか。というこれもまたどこかで読んだ誰かの文章に「20世紀は『空間』を芸術の対象としたが、21世紀は『時間』が芸術の対象となるだろう」的なことが書いてあって「おお。うまいこと言うなぁ。」と思ったことを思いだしてみたのだった。



・「生活のすべてを『芸術』とすること」に意味を感じながらも、「生活のすべてを『労働』とすること」に対しては、恐れ続けること。日々打ち込むツイートが「株式会社・自分」にとっての広告のための言葉であることに自覚的でありながら、しかし、何かの方法で、「正しい」メッセージを送ること。メッセージを送ることを諦めないこと。そのようなこともまた「ドキュメント」の問題と関わってきたり/関わってこなかったりする。ちなみにこの場合の「正しい」は、ゴダール的(?)な「俺の考える『正しさ』」ってことで。


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・そのようなことを考えていた金曜日。スーパー・ナイスなタイミングで知人のドキュメンタリー映画の試写会が行われるという情報をSMDくんから教えてもらって、その映画を観に行く。ここ最近の「ドキュメント」への関心も相まって、上映時間の104分の間中あれやこれや考えてしまったことも含めて、とても面白い映画だった。或る場所の或る伝統が題材とされているという意味では、所謂ドキュメントの本流(ってなんだ?)のような作品でありつつも/あるからこそ、そこからはみ出していくような部分もあったりして、異様に面白かった。面白かったけどまとまらないのでメモのみ。「上書きされる歴史」「場所とともにある音楽・場所と切り離された音楽(どこから聞こえてくるのかわからない音響)」「夢のような時間」などなど。



・それでその後業務に行き、終了後に久しぶりの、どれくらいぶりかと言えば5月以来くらいの、Hさん&Sさんとゴールデン街のあんまりゴールデン街ぽくないお店の2階のバンガローみたいな席で飲食。久しぶりに会って色々なことを話せて本当に良かった。自分は時々「ケミストリー」という単語を何となく、しかし完全に良い意味で使ったりするけれども、人と人との出会いはまさにケミストリー(化学反応)。そのようなことを確認した夜。25時帰宅。