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  映像研究

例えば「逆説的」に考えてみたのならば、

 
・日々の記録は例えば9月5日の月曜日。10日ぶりに業務。昼過ぎに御苑前に到着して数時間のデスク・ワーク。いつか来るはずの10月とか12月とか2012年とかの準備をする。いつかそのような時間と空間に自分がいる10月とか12月とか2012年とかについて想像しながらのデスクでのワークは面白くも恐ろしい。


・そして業務終了後に最寄りの書店としての「模索舎」にて『砂漠』と『祝祭』を購入。どちらも手にしたかったZINEだった。『祝祭』の「特集:原発反対」は写真も文章も、何と言うか力があった。一方『砂漠』は、自分がこのところ考えて/感じていたような「新しい日常」のようなものを示しているように思った。どちらも今起こっている/起こった/起こり続けている出来事を、シンプルに表現するようで、速度を感じる。


・そして思いだしてジュンク堂にも立ち寄って『表象』という雑誌の「04」と「05」を購入。数日前にその存在を知ってからずっと読みたかった「04」の小特集「ドゥルーズの逆説的保守主義」を小一時間かけて一気に立ち読み。「ドゥルーズ」という人に対してほぼ初心者である自分にも「ドゥルーズ」と「保守主義」を並べたときの、微妙に、しかし確実にちょっかいを出してる感じはよくわかるような気がして気になっていた。


・それで読んだ。思わず「おお」とため息を漏らすような内容。國分功一郎という人の「ドゥルーズは世界を変えることを望む人々に人気があるけど、ドゥルーズの本には実際はそんなことは書いていない(ように読める)」「むしろ『見ることを学び』ながら『待つ』だけなのではないか(と読める…が…?)」というような読み方が(変革のための行動を自制するという意味において)「保守主義(のような立場)」して示されたならば、自分だって「それは確かにそうかもしれないな」と思う。


・しかし、そこで、一方、「でも、」とも思ったならば、また別の読み方/解釈が示される。対談の相手である千葉雅也という人や、佐藤嘉幸という人はむしろ「保守主義」という概念の方を(逆説的に)肯定的に捉える形で「市場の要求に対して『固着する』『抵抗する』『欲望を諦めない』ことを、保守主義と(あえて)呼ぶこと」によって微妙に微妙なブレイク・スルーを試みる(試みているのか)。その部分はとてもスリリングで面白い。



・そしてそれは、例えば「相互扶助」の根拠として「アナキズムが、」と言ってみた時に、それに対して「でも一番アナーキーなのって『市場原理主義』だよね(生成最高、って言うならどんどん仕事変えてね/もちろん市場の要求に従ってだよ)」と言われてしまった時の、一瞬「え…?俺そんなこと言ってなくね?」となるような気持ちに対する、ひとつの解決法になるかもしれない、あるいは解決にはならないまでも、解決に繋がるきっかけになるかもしれないな、と思ったりする。


・そう考えてみたならば、差し当たって、ひとつ、「(市場の要請への抵抗として)欲望を諦めない」という時の、その「欲望」について考えることが必要になってくる、というか「欲望」について考えたいし、だってそもそもそれは「欲望」なのだから、ただ、したい。対談で例に挙げられていた「海外ドラマのDVDレンタルした人も、ほんとは海外ドラマが見たかったんじゃなくて、単に外に出たかったのかもしれない」という部分は、なんとも夢がある話だと思う。


・「本当に何がしたいのですか?」という質問はいつだって面白い。その「したいこと」を集めて、話し合って、調整することは面倒だが面白い。そして調整した結果、それがもともとの、ひとりひとりの「したいこと」とは微妙に、全然違ったものになって、誰の「したいこと」でもない、何か、になって、でもそれもまた面白い出来事になるのだとしたら、それももちろん面白い。「こんなこといいな(できたらいいな)」を膨らませる夜は、いつだって面白い。


フレキシビリティというのは、権力の要請にいくらでも対応できるということですね。マラブーはそれに抵抗して「可塑性」という言葉を言っている。彼女が考えるような可塑性は、市場の対応可能性ではなくて、市場に対する抵抗を持ちながら、しかし欲望を別様に変えていく可能性ということです。僕はそれをドゥルーズガタリとつなげて考えている。欲望の一元論=多元論が、市場の要請に従って欲望を変えられるという話にスルッと置き換えられてしまうと言う顛末をつねに回避しなければならないと思うんです。そう考えたときに、やはり重要なのは「欲望を諦めない」というさっきの話で、ある欲望への固着によってこそ、市場がどう要求しようとも、それに対して断固抵抗することができる。それは保守的と言われれば保守的でしょうが、この保守性がなくなったら終わりだと思うんですね。ですが、そこで一つの欲望にこだわっていればいいというのではなくて、ある中毒=依存から異なる中毒=依存への横断可能性、トランスアディクション潜在的に肯定する。だから、理念的流動性としてドゥルーズガタリの欲望を捉えてしまうと、資本主義の最先端と共犯的な保守主義になってしまう。ゲームのルールを追認するだけになってしまう。それに抵抗するような逆説的とも言える保守主義があるとすれば、それはまずもって可塑的な欲望の逆説的保守性にもとづくはずであると思います。(千葉雅也という人の発言から)

「欲望について譲歩しない」というのは、革命的なことだと思うんですよ。我々はほとんどの場合、欲望を諦めているでしょう。だから、そういう意味で「あなたの欲望について譲歩するな」というのは非常にラディカルな定言命法ですよ。それは変わらないということではなくて、あなたが持っている欲望を極限まで追求しろ、という定言命法ですね。もちろん、あなたが持っている欲望は簡単には変わらない、一朝一夕にフレキシブルに変わるようなものではないから、その意味で、自らの欲望を追求することが重要になる、という話でしょう。ただ、僕の考えでは、それだけを言っていると単にラカン主義の称揚になってしまうのであって、そうでないドゥルーズガタリ的な主張を付け加えるとすれば、「欲望について譲歩しない」ということが重要だとしても、その欲望は、思わぬ契機によって生成変化し得るんだ、ということだと思います。だから、つねにあなたの欲望について譲歩しなくても、いつの間にかあなたは変わってしまうかもしれないし、世界も変わってしまうかもしれない。(略)市場の要請に従ってフレキシブルに変化しなさい、とつねに求め続ける資本主義に対して、欲望について譲歩してはならない、という命法自体がまず過激なものだと思いますよ。しかし同時に、市場の命法に従って変わるのではなくて、あなたがふと気がついたときに、その欲望のあり方がある出会いによって、まったく別のものに変容しているかもしれない、その可能性を肯定しなさい、と言ったことが、ラカン主義に対するドゥルーズガタリ主義のポジティヴな意味だと思うんですよ。(佐藤嘉幸という人の発言から)