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  映像研究

土曜日と日曜日にこんなことやあんなことがあった

 
・5月21日(土)は夕方から業務。そして業務終了後はパーティー。ここしばらく週末の夜はパーティーだ。パーティーであり会合でもあるような集まりだった。平日は早すぎる梅雨のようなしっとりとした気候の中じんわりとした読書。そして週末はそこで考えたことを他の人の考えと照らし合わせるためにどこかへ出かける。図らずも(図りつつ)そのようなサイクルでこの春を過ごしてきた。しかし今夜は純粋なパーティーだ。純パーティー。誕生日を祝うためのラップの歌詞(ライム?)がメールでまわってくるような種類の宴だ。そのようなパーティー西東京の某カレー店で行われる5月も後半のサタデー・ナイト。熊本の新政府の話(君は何大臣?)などをしているところで突然ざわざわとパーティー感が押し寄せたならば、閉店を合図にして、リズムを無視したラップのようなメッセージだけが錯綜する宴が始まる。


・そして歌った。みんな歌う。デュエットもする。話す言葉と笑う声とがクロス・フェードして、舌が意識に追いつけなくなったら同じフレーズを繰り返す。繰り返した言葉はリズムになって音楽のようなものになる。音楽になる。ラップのような、歌のようなものになる。ギターを持ってくる人がいて演奏が始まる。演奏が始まる前も、演奏をじっと聴いている最中も、演奏が終わってため息を吐き出したあとも、ずっと音楽は続いている。続いていると思う。そしてふと、このように歌を歌うことが、生活の中にふっと自然に現れるような文化の中に暮らしていれば、自分はもう少しもてたりするのではないかと思ったけれどもそれは完全に思い違い(思い上がり)かもしれない。あらゆる言葉は、それが本に書いてあっても、楽譜のようなものだということが、はっきりとわかった。言葉はそれを発する人によって、意味も色々になるということを、はっきりと思い出した。歌は心、ならば精進しよう。T家のカーで送ってもらいつつ、車中では(いよいよ)プレ・ミーティング・オブ・ミーティング。26時すぎ帰宅。



・5月22日(日)は昼から業務。チーム同僚が業務にまつわる新しいプロジェクトを着実に進めていっていることを頼もしく驚きつつ、そしてこの業務という環境でも考えたり実験したりできることはまだまだ沢山あるのだとあらためて思う。終了後にバックヤードで謎のインタビューの実験台にされるが、どんな些細なことであれカメラを前に話をすることは難しいのだということを思い出したりしながら急いで中央ラインに飛び乗って武蔵境へ。


・武蔵境の「武蔵野スイングホール」という場所で『幸せの経済学』鑑賞。会場入口で国立のS夫妻に遭遇して、おっやっぱりという感じで挨拶。映画に関して2月に立教大学で一度観たときとはまた違った印象であったのは、やはり「3.11以後」のことが意識に入り込んできてしまうからなのか。どうなのか。上映後には主催者の方が客席の人に促して色々な感想を聞けた。「ローカル」「ローカリゼーション」という課題?に対して、まずはその定義をひとりひとりが探っていくことはきっと多分大切。自分としては「ローカル=場所との関係」「コミュニティ=人との関係」と捉えてみた上で、それらをどのように(同時に)考えていくことができるのか。あるいは関係づけていけるのか。思考と実践は続く。そして感想のパートが盛り上がってきた(?)ところで最後にひとりの方が「自分が好きでよく行くカレー屋さんやコーヒー屋さんがあって」「その場所を通じてまた別の場所とも繋がっている」というような感想を話していて、それはとても良かった。


・そして「そうか、カレー屋さんか…ん、カレー?」と考えていたならば、二日続けてだろうがなんだろうがカレーが食べたくなってしまったのだから、隣接する駅の某カレー店に流れ着く。昨日と同じ場所に昨日と少し違った人がいる。T夫妻やSMDくんの事務所メイト、後輩の大学生など含めた謎のメンバーで、あるいはもしかすると「ローカリゼーション」としての夕食。「幸せ」や「経済学」と繋がっているような繋がってもいないような話題で結局深夜まで話す。しかし話すことで(ようやく)整理されることがある。というか話すことでしか整理できないこともある。ちなみに2月の立教大学のときには前作の『懐かしい未来』のダイジェストも合わせて鑑賞し、またこの期間『ラダック・懐かしい未来』の書籍も読み直したりしていたこともあり、自分の中で色々混ざっていたのか『幸せの経済学』を「ラダックのドキュメンタリー的な映画だよ(たしか)」と人に紹介していたらしく、終了後に「これは、ラダックの、ドキュメンタリー、ではない…よね?」と聞かれたことには申し訳なく思わないこともない。


・しかしまたそれと少し違った「これは、ドキュメンタリー、なの…かな?」という感想も、個人的にはそれはそれでなかなか興味深かった(申し訳なく思わないこともない)。そういえば自分だって少し前までは「アメリカ型の(仮にそう言ってみる)プレゼンテーション資料のようなドキュメンタリー」に抵抗があったのだけど、いつからかほとんどそのようなことを考えなくなったのは、自分の家にテレヴィジョンが無い生活が当たり前になったことと関係があるのか。どうなのか。あるいはまたそれは「表現」の問題、つまり「内容」と「形式」の問題なのかもしれなかった。形式を重んじる表現と、それを純化していく意識としての芸術。自分は今やそのような表現とは違った「表現」に興味があるのかもしれなかった。というか興味を持つとか持たないとかではなく、そのような「表現」を考えたり考えなかったり、したりしなかったりなのかもしれないのだった。25時前帰宅。