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  映像研究

上関原発と皿

 
・朝起きると部長ことTくんからメールが来ていた。YOUTUBEのアドレスは『原発計画に揺れる"奇跡の海"島民は』というもので、5月7日にテレビ朝日で放送されたらしいその映像は、上関原発に関して、主に祝島の人びとの声を取り上げるかたちで、原発建設反対の運動について紹介していた。そしてその上関原発に関しては、数日前に山口県知事が事実上埋め立てにストップをかける方向で動き始めたことがかなり大きく報道された。どのような理由であれ/それが大きな災害の結果であれ/もしやそれが某別の国からの通達的なものによるものであれ/ともかく作らないのならばそれでよい。今までもそのように思ってきたし、もちろん今もそう思っている。


・今から新しく原子力発電所を作ることだけは止めた方が良いと思う。そのことにわざわざロジックが必要だとも思えないけれども(必要でないといいなぁ/でも「推進する人」はきっと「反対する理由」を問いつめるのかもなぁ)しかしあえて考えてみたならば、自分はこういう架空の未来を想定する系の小話的ロジックは特に得意でも好きでもないですけれども、例えば普通に考えて50年くらい先の未来にその時代の子どもが「何らかの年表的なもの」を見ながら「おや?この2011年には、例の福島の原発事故が起こったけれども…一方そんな時になんで別のところでは原発作ってんの?2011年の人って…馬鹿なの?」と尋ねられたならば、聞いていない振りをしていた80歳くらいの自分はびくっと振り返り、少し困りながらも「…うむ。馬鹿なのじゃよ。」と答えるのか。答えなければいけないのか。


・「毒を食らわば皿まで」という言葉が好きではない。なぜ毒を食べたからってよりによって皿なんて食べなくてはいけないのだろう。普通食べないよ、皿なんて。普通の人は「あっ、今食べたの毒だったかも!」と思ったら、全力で毒を吐き出して、どんなに苦しくてもまずは毒を吐き出して、そして生きる。まず何よりも生きることを考える。毒を食べて苦しんでいるときに皿のことなんて考えている余裕はない。もしも皿のことを考えている人がいたならば、その人は毒の恐ろしさがわかっていない人に違いない。あるいはそもそも普段からうっすらと皿を食べたかったのかもしれない。隙あらば皿を食べようとしていた人なのかもしれない。皿好きの人なのか。めちゃくちゃになればいいと思っているのか。やぶれかぶれなのか。そんな人の変な理屈に巻き込まれて死ぬのは嫌だ。


・上関原発が建設されなかったならば、それは希望になると思う。きっと開発というものは「開発することになった場所を開発する」ことと「開発できるような場所を見つけて開発することに決める」ことの無限のループしかなくて「開発することができる場所について、開発するかしないか考える」という段階はない。だから「目をつけられてしまったら事実上終わり」だし「いつ目をつけられてもおかしくない」のだと思う。「立ち止まって」「考える」ことが許されるという希望。そしてそれを「開発しない」と決めること。「開発した場合と、開発しなかった場合の、コストを計算してみる」という思考の枠組み自体を徹底的に疑ってみることをしたい。その上で「では、開発しないとして、どう生きるか?」という回路を作ること。例えばそれを希望だとする。