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  映像研究

センス・オブ・ワンダー、についての断片のいくつか

 
・まずはじめに「驚き」があった。この数日「驚き」について考えている。自分にとってあらゆる「好ましいと思う感覚」を表現する言葉として最も上位にあるのは「おしゃれ」かなと思っていたけれども、その「おしゃれ」について考えていて(大体いつも「おしゃれ」について考えている)「ああ、自分が『おしゃれ』と表現している感覚は、もしかすると『驚くこと』と言えるかもしれない」とふと思った。それは「うまく流行を捉えている」ような意味での「おしゃれ」ではなくて、環境から/常識から/風景から、ふわりと浮き立つ「驚き」としての何か。驚きとしてのファッション(そのTシャツおしゃれだね)、驚きとしての言葉(その言い回しおしゃれだね)、驚きとしての思想(その発想…以下略)、そういう感覚について思いを巡らせたならば、どうなのだろうと考える。



レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』という本を読んでいた。3月の震災直後にアップリンクへ『レイチェル・カーソンの感性の森』を観に行ったけれども、その映画のコピー「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないのです」ということの意味が、この本を読んだことで急にわかったような気もした。「感じる」ことはつまり「驚く」ということかもしれない。生物のあらゆる営みに、そして季節とともに移り変わる環境に、はっと驚く。はじめに「驚き」があった。驚いて、そして感じることから派生して、そのことについてもっと深く知りたいと思ったならば、人に聞いたり、本を読んで調べたりするのかもしれない。



・火曜日に全然業務と関係なく同僚とちらっと会ってお茶をしつつ「大学生はどうしたら積極的に『学び』に乗り出すのか」という、よく考えてみれば大層偉そうな、それお前が言うなよな、という感じの事柄について意見を交換していた。たとえば「放っておいても自分からどんどん興味を拡げて本を読み進めていくような学生もいれば/指示された事柄以外の情報になかなかアクセスしようとしない学生もいる」というそのような二分法は、果たしてそのようにわかり易く二分されてはいないと思うなりに、いずれにしても自分はそこで後者のような学生(しかしこれはきっと学生に限らないのだろうな)がそのようであるのは、きっと「困っていない」ことが理由なのではないか、とややもすれば皮肉ぽい(困ってないならそれは幸せなだろうなぁ)意見を話したけれども、それはまぁそれとして、しかし「困る」ことよりも、もっと大切なことはやっぱり「驚く」ことなのだろうと思い直した。「学ぶ」きっかけの、まずはじめに「驚き」があるのは、それはきっと本当に幸せなことだと思う。



・プロセスについて考える。具体的なことを知った上で、その「知ったこと」を素材として、何かをつくったり、抽象的な思考を立ち上げたりする…ということがあらゆる発展していく事柄(ex学ぶ)プロセスの原型だと考えていた(自分でも思い直したことがなかったが/多分きっとそう考えていたような気がする)のだけれども、本当は違うのかもしれない。本当は「感じる」という抽象的なイメージのようなものがまずあって、そのイメージを頼りにして、具体的な断片を手にしてみたり、繋ぎ合わせてみたりすることが、あるべきプロセスなのかもしれないなとか、そんなようなことも考えないこともない。



・毎年春が過ぎて夏が近づくと、自分が、ワンダー、とか、ワンダフル、とか思うファッションについて思い出す。全然関係ないかもしれないけれども、そういえば「ハレ」のような感覚が好きだ。ファッションに関して、個人的には常にうっすらと「神輿感」のようなものを裏テーマとして走らせていたい。夏になったならば、股引(ももひき)のようなぴったりとしたズボンに、法被(はっぴ)のようなざっくりとしたシルエットの、柄もののシャツとかを着たい。あるいは大人として/都市生活者として、それはどうなのかと思う/思われるくらいギリギリの短い半ズボンとかを履きたい。それがそのままで/それだけで、ワンダー、だとは、もちろん思わないけれども。



・芸術における「ハプニング」とか、一期一会的な「ちょっかい」とか、そういう驚きから何かを知ったり、何かを考えたりすることも多分ある。その「驚き」から最も遠い概念が、ゼロ年代の流行語としての「(IT社長が使った意味での)想定内」という発想で、それはきっと「何が起こっても驚きませんよ」ということなのかもしれないと思った。そう考えてみるとしかし本当におしゃれじゃないな「想定内」って。ところで今や(3.11以降)「想定外」は完全に違うニュアンスを持って使われる(口実として?)言葉になってしまったので、もう「想定外」という言葉を、微妙に違った意味にずらして使う(誤用すること)ことも「おしゃれ」ではなくなってしまったことは、少し残念だ。



・ファッションについて、再び。ついこの間古本屋で数百円で購入した『モノ誕生「いまの生活」―日本人の暮らしを変えた133のモノと提案 1960‐1990 (晶文社生活資料館)』という(ちょっと小ぶりの電話帳くらいのヴォリュームの)本を読んでいた。色々と面白い文章が多かったけれども、その中でとくに橋本治という人が書いた『男の編み物』という「セーターを編むこと」について書かれた文章を(あらためて)興味深く、強く惹き付けられながら、読んだ。それはきっと「編み物」について書いているようで、本当は「おしゃれ」とか「驚き」とかについて書いているのだと思う。あるいはまた「学び」や「表現」について、そして「思想」についても書いているのだと思う。

あなたのセーターは三番目の服装なんです。
 
(略)なんだって男がセーターなんか編まなきゃいけないんだろう?というような疑問は知りません。そんなもん、各人各様に違うんだから。違うけど、でもその結果出来上がってきてしまったものの中から見つけ出せる成果というのは、やっぱりあるんだとは思いますね。それで、こんなわけのわからないことを書いているんでしょう。
あなたの編み上げたセーターというのは、実は、三番目の服装になるんです。
それは、普段着ているものでもないし、決して着られるものでもないし、着たくないものでもない。
それは前衛と呼ぶには、あまりにもまともでありすぎる。なぜならば、なんにも知らないあなたは、とりあえず一番ありそうなものを作りあげるという、極めてオーソドックスなルートを辿ることしかできなかったはずだから。
そして、それは、まともと呼ぶのにはあまりにも前衛すぎる。なぜならば、そんな下手クソなセーターは、まともな店では商品として取り扱えないから。
そして、あなたは、そのどっちつかずのなんだかわからないものを、愛している。少なくとも、それができた時あなたは喜んだし(略)今これを読んでいるあなたは、ここを読むまでその喜びが持続していた。
私はあなたに聞きますけれども、あなたが今まで自分の編んだセーターを着てきた理由はなんですか?
 
それが、今まで自分が着ていたものと同じように無難なものだったからですか?
嘘おっしゃい。
まさか、それが流行の先端をいっていたからでもありますまい。
だってあなたは下手ですもの。
 
問題は、それをあなたが、今までとはまったく違った理由で着ていた、ということなんですよ。誰に押しつけられたわけでもなく、なしくずしにそういうところに落ち着いちゃったわけでもなく、なにかからの反発によってでもなく、あなたの自主性がそれを完成させたから、そのことによって、あなたはそれを嬉々として着ていたってことでしょう。
個性ってそういうことよ、第三の道ってそういうことよ。頭だけで考えてる教条主義者に、本当に自分が必要な選択肢なんてわからないもの。でも、今あなたにはわかるでしょう?自分が何かをやれて、そのやれたことがまだまだ改良の余地を残していて、そのことにおいて可能性というものが感じられるということが。