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  映像研究

雰囲気

 
・「時代のムード」という言葉を、使うか使わないかはともかくとして、その時の雰囲気、というもの、物?、ものが確かにあって、ほんとうはいつもその雰囲気だかムードだかのなかを泳ぐようにして、進んだり、止まったり、また進んだりしてきた。してきたと思う。「ムードなんて関係ないよ(ないぜ)」という気持ちだか考えだかは、まったくに近いくらいあまりない。あまりないと思う。むしろ電波を受信してラジオが音を鳴らすように、ムードを受信して言葉を話したり文字を書いたりしている。していると思う。そして言葉はからだの動きとかリズムとかと影響し合っているのだから、からだは新しい洋服を必要とするだろう。そうして財布の中から何枚かの(野口英世柄の)紙幣を出して、今まであまり着なかったような雰囲気の洋服を購入してみて、その洋服を着て鏡の前に立ってみたならば、2012年の春。


・偽物かもしれない(ちゃんとした古着屋?で買ったから多分大丈夫)レディースかもしれない(一応メンズですと言われた)ラルフローレンの、コットンとリネンの、藍染めの、微妙なボーダー風に見える織りの、一歩間違えると高原に暮らしているおばさまとかが着ていそうなニットを3990円で購入してみた。それはからだが必要とした新しい洋服で、そしてこのように「どうやらからだが新しい洋服を(別に和服でも良いのだけど)必要としているのだけど、どのような洋服を必要としているのか、わからない」という状態で、洋服を売っているお店に行って色々な洋服を見てみて「どれも違うなぁ」と思っていた時に「あ、これはちょっと良いかも」と思ってしっくりしたような洋服を見つけて、尚かつそれが購入するのに適切な金額の物で、それを購入することができるような事はとても嬉しい。惰性で「そこらへんにある服」を着ている事、なによりそのように自覚していながら生活を続けていくことは、あまり良くない。良くないと思う。


・それでムードだった。物を買うムードだった。「あ、新しい物が買いたい」と思うようなムードだった。そしてその「ムード」が無限と思えるくらいに集合したならば、それは「景気」になる。「景気」という概念が成り立つのは、そもそもその「ムード」が、個人の欲望、とかそういうレベルではなく、というか「個人の欲望」というものがむしろ、そうではないレベルの何かによって生み出されているから……というような話題は、ちょっと大変そうなので止める。


・「おしゃれ」という言葉で考えていた。何が「おしゃれ」かということを考えていたけれども、それはムードを受信できるかどうかということだと思う。ムードは数えることができない。だけれども、それは確かに存在しているのだと思う。


・例えばこの5年くらいを考えてみる。「シェア」というムードがあった。もちろんまだ在る。「脱成長」というムードがあった。もちろんそれもまだ在る。「貨幣を介さない交換の方法」というムードがあった。それも在る。だけれども、そのようなムードと完全に並走するかたちで、あたらしいリズムがうっすらと鳴り始めているように思える。聴こえる。それは何だろう。あるいは2008年くらいに空白のようにぽっかりとした時間があって、そのような時間が2010年くらいに何か特別な空間を作り出した。そしてしかし、2011年には完全に質の違った出来事によって、一度何かが切断された。そして2012年の今は、接ぎ木をするように、同じ時間の、別の時間が流れている。これらは完全に、自分にとってのムードを、ムードの集合を意識しながら、あくまでもムーディーに描写してみただけなので、確かなこと(統計とか)は何も無い。でも感じることは在る。


・「いま、もう既に有る物だけでやっていこう」というムードも在る。「いま、もう既に有る物を有効に活用していこう」というムードも在る。「どんどん新しい物を作り続けていこう」というムードは…どうだろう?企業からどのくらい税金を取るかどうかとか、移民をどうするかとか、少子化対策とか、そういうことは最終的には国の偉い人や経済界の偉い人が決めるのだろうけれども、そのような制度と関係しながらも、圧倒的に「ムード」が存在している。


・住宅を買うムード。子供が生まれるムード。学びたいムード。色々なムードについて受信したり想像したりしながらも、とりあえずムードに応じるようにして部屋を掃除する。