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  映像研究

そして・デモンストレーション・再び

 
・5月7日の土曜日は小雨が降ったり止んだりする中でのデモンストレーション@渋谷。4月10日の高円寺以来の1万人規模のデモンストレーションに自分の周りからも多くの人がやってくる。プラカード的なものを作ってみたり、Tシャツを刷ってみたり、思い思いの撮影機材で記録を試みてみたりする。そしてきっとみんなそれぞれに「デモ」について考えて、考えた結果としてその場所に来ているのだということを最近強く思う。歩きながらもシュプレヒコール的なことをしたり音楽に身を委ねているだけではなくて、隣の人と話したり、あるいは沿道の人と目が合ったりすることから何かを考えたりすることができる。そこで色々に色々なコミュニケーションが生まれることは決定的に大切なことだと思う。



・そうは言いつつも今回は自分はほとんど最初の部分しかいられなかった。夕方からの業務にダイヴするために代々木公園から原宿駅まで歩いたところで離脱。プラカードと菜の花を託して友だち(デモダチ/コピーライト・BY・HKT)副都心線に飛び乗る。ドラム・サークルがリズムを演奏して原子力発電所モチーフ?の神輿も担がれて、ようやくデモがデモらしくなったところだっただけに早々の離脱は残念。アフター・デモの夕食の集まりに行けなかったのも個人的には少し残念。



そしてちょうど離脱した瞬間に原宿駅と代々木体育館を渡る歩道橋の上から偶然に見た光景に対して、何と言えば良いのだろうとずっと考えていた。「デモに参加していた人が逮捕された」と例えば何かの記事になってしまえばそれだけの短い言葉で表されてしまう事柄は、しかしそれほど単純なことではないように思う。自分はその光景の恐らくはほぼ一部始終を眺めていたのだけれども、歩道橋の上から眺めているだけでは、何がどうしてそうなってしまったのか、つまり何故逮捕されてしまったのか、まったくわからなかった。あとで思い返してみたならば自分が歩道橋に上る直前に、既に音楽を演奏している人が載った車と引き離されていたデモ隊の人が「どうしてこれほどに距離を空けるのか」と警察官の人と言い合っていたようだったから、そのことから派生した事柄なのかもしれない。



・しかしわからない。「眺めているだけではわからない事件」が起こったのか、あるいは「間近で見ていても意味がわからない(つまり正当性のない)事柄」が起こったのか、それがわからない。そしていまだにわからないし、今後もわからないかもしれないと思っている。しかし(わからないなりに)自分はこの事柄に関しては「きっと逮捕するほどのことでもなかったのだろう」と考えている。それは「逮捕するほどのことでもなかったのに逮捕された事柄」というものがあると認識しているからだ。例えば2008年の「洞爺湖サミットのときの札幌でのデモの最中の逮捕」は(映像を見た限り)正当性があるように思えなかったし、またデモではないけれども同じ年の「麻生邸見学ツアー」で逮捕された人がいた、といようなことも(映像を見た限り)まったく逮捕される理由がわからない。あるいは所謂「不当逮捕」と呼ばれる事柄の参考資料映像のようでもある、森達也という人のドキュメンタリー映画『A』のその場面では「(観た感想としては)警察官の人が目的の人を倒して勝手に痛がって『公務執行妨害』で逮捕する」場面が映っている。そしてこういう事柄を知った上で考えることがある。



・だから自分はそこにはやっぱり何かの「力」が存在している、と想像してしまう。そしてそのように考えている人も少なからずいるのだろう。しかし、そう思ってしまうけれども、例えばそれを言葉にしてみたときに「やはり権力は(…しようとしているのだ)」と、そう名指した瞬間に、何か微妙に自分が感じている感覚とずれてしまうようにも(非常に微妙にだけれども)思っている。だから、ある時/ある場所で起こった事柄に関しては「自分は最終的にはわからない」という判断に留まりながら、しかし同時に過去に起こった色々な事柄を知り、そして何より想像力をはたらかせた上で、考え続けるべきことがあるのだと思う。



・その事柄をさておいて、デモについて考えてみる。自分は早い段階で抜けてしまったので後で聞いたところによると、今回はデモの隊列が「すごく短く分けられて」「すごく細く歩かなければいけなかった」らしい。「高円寺のときはもう少し自由だったのになぁ」というようなことを言っていた。例えばそういう事柄に対して、あまりデモに慣れていない自分は、きっと困ってしまうだろうということを考える。音楽が流れていない場所で、人が少なくなった隊列をただ歩いていただけならば、少し心細くなってしまうかもしれない。あるいは自分はそのようには思わなくても、そう思ってしまう人のことを想像する。そして心細くなったときに、ちょうど沿道の人が「全然デモなんて存在していないようなまったく不自然に毅然とした感じ」で歩いていたりしたならば、いよいよ悲しくなってくるかもしれない。「だってあなたは何か言いたいことがあってデモしてるんだろう?」「言いたいことがあるならば言えばいいじゃん」「言えないのか?」と、本当に誰かがどこかでそのように思っているかどうかはわからないですけれども(仮想敵/敵でもない)、そう思われているかもしれないという意識から、ただ「誰かと一緒に歩きたい」と思っている人の気持ちが少しでも損なわれてしまうようなことは、まったくつまらないことだと思う。



・そして自分がこの期間(再び・三たび…)考えたことは、デモという行為は「自分は/ひとりでは/大したことはできない」という意識から生まれる/だからこそ基本的で/力強く/普遍的な「表現」なのだろうなということだ。だから例えば今回「原子力発電所には反対だけれども『デモ』には参加しない」と思っている(そしてそれを公言している)人がいるとしたならば、その人は「自分にはもっと(ひとりで/ひとりの名前で/つまり「表現者」として)他にできることがあるはずだ」と思っているのかもしれない。そして/もしもそうだとして/自分はそのことを(当たり前ですけれども)間違っているとは思わない。「しかし、」とも思う。「ひとりではできない」というある意味での『諦め』を「しかし、」本当は全然『諦め』なんかではなくて『可能性』として捉え直すことこそが、今は必要なのではないかな、とそう考えている。



・ひとりではできないからこそ、他の人とともに考えて、ときに一緒に行動する。そしてだからこそ「色々に色々なコミュニケーションが生まれる場」をつくることができる。そしてそれは、ある共同体の中での/に対するアクションとして、とても基本的なことだとも思う。表現の基本としてのデモンストレーションについて考えよう。まず、はじめにデモンストレーションがあった(当てずっぽう)。だからそれはきっと続いていく。再び、そして、続いていく。