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  映像研究

センス・オブ・ワンダー、についてのより断片的ないくつかのうちの

 
・あらゆるところに「驚き」があった。山登りなんかをしていると、それはまるごとの時間が、センス・オブ・ワンダー、というか、山を歩くときには、ただ感覚をするために歩いていると思う。そういう時間がある。感覚すること、そしてそこから何かを知ろうとすること、そのこと自体を目的としたアクティヴィティが山登りだなと思う。また山に登りたい。



・春になったから、山菜のことをずっと考えていた。山菜でなくてもよいけれども、庭や、野原や、山道や、河原に生えている植物を摘み取って食べることの不思議さと面白さと尊さについて考えていた。例えば放射能が降り積もってそれが食べられないかもしれないということは、一体どういうことなのか。そのことに心を痛めて、そのことを悲しいと思うのならば、それはどういう痛みでどういう悲しみなのかについて考える。山を歩いていて山菜を見つけたならば、驚き、喜び、そして近づいて摘み取る。そして食べることで自分の一部となるかもしれない。その行程の最中の色々な感覚が「疑うこと」や「怪しむこと」そして「恐れること」に変わってしまうこと。色とりどりのセンス・オブ・ワンダーは消える。その痛みと、その悲しみを、中心にする。



・山菜を採って食べること自体は、本当にとても小さなことだと思う。自分にとってもそれはそうだ。(当たり前だけど)誰のためにやっているのでもないし、人にはたらきかけることとは正反対のことだと思う。もちろん「山菜を採ってきて食べるために集まる」とかになるとそれは「山菜パーティー」という、愉快なコミュニケーションの一形態になるかもしれないけれども、そうではなくて「山に行って山菜を採る」ということ、それ自体は、本当になんでもない。なんでもないのだけれども、しかしそこには確実に何かがあったことを知っている。



・「自分はバランスの崩れた世界に生きているのかもしれない」という直感のようなものは、どこかの本や映画で見たり聞いたりしたことに由来するのかもしれない。その感覚の確かさを確かめる方法は今のところわからないのだけれども、でも時々、そういう風にしか思えないような気持ちになる。なったときにはどうするか。もしかすると、そこで人は山菜を採るために山に入るのかもしれない。あるいはその山菜を食べたあと、少し考えて、庭に何かの種を蒔いたりするのかもしれない。



・知っている人や、知っている人の知っている人に何人か「動物を自分の手で殺して/そして食べたい」という人がいる。自分はその人たちの思考を、その人たちと同じ道筋で辿ったわけではないので、あるところからは想像するしかないのだけども、その人たちがしようとしていることも、その感覚と関係があるのだと思う。そうして動物を絞めることにまでは踏み込まない/踏み込めない人としての僕は、山菜を摘み取って食べる。だからそれは「狩り」だ。



・バランスについて。生命について。あるいは「対称性」とか呼ばれたりもする事柄についても考える。そしてそこまでを含んだ「歴史」について想像したい。その想像から、今目の前で起こっている、起こりつづけている出来事についても考えたい。