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  映像研究

そうしてあの11月も終わりゆく。

 
・そうして終わりゆく11月最後の日も限りなく青天。前半はゆるやかに、後半はばたばたと過ぎていった。なにしろフェスティヴァルにはじまり、それに終わった11月だ。文化祭前の日々だった。エステには行けなかったが(誕生日に職場の後輩に無料券を貰ったのだった)すがすがしい気持ちではある。備忘録も日にちと同じだけした。その分つぶやかなかった。



・それで11月最後の本日は思い立って木場公園へ。東京都現代美術館の『トランスフォーメーション』を観に行く。何か今ならわりとすっと面白い作品を面白いと思えそうだったのだった。思えそうだったのだけれども、実際まぁ普通だった(自分のコンディションが)。石川直樹という人の登山のドキュメントは面白かった。あとマーカス・コーツという人の、日本の町?村?でパフォーマンスする映像は面白そうだったけれども、隣のブースの高木正勝という人のハリウッド映画みたいな音に邪魔されて全然良く観られなかった。全く意味がわからない構成。ちなみに高木正勝という人の映像を初めて(久しぶり)にちゃんと観たけど、それはそれで凄いクオリティに達したものだと思った。本当に。あとは2Fのアーカイヴのコーナー『トランスフォーメーション・サイクル』のコーナーが洒落ていた。「生命の樹(TREE OF LIFE)」なんてもっと大きなサイズで見たり読んだりすればもっと楽しそうであった。



・それで帰ってくる。期待しすぎていたせいなのか「やや残念」という気持ちのままいろいろと考えつつ帰路。非常に根本的なところで「企画展」というものの中で切り口(キーワード)以上のことを提示する困難を考える。森美術館の『ネイチャー・センス』もそういうところがあったけれども(でもあの展覧会は出展作家が少なかったのでそれが逆に気にならなかった)、しかしあるいはそこで何らかの「価値観」のようなものが提示されることを期待していること自体が期待しすぎているということなのかもしれない。あるいはいよいよ、コンテンポラリー・アートのモダン・アートな部分(適当)に興味が無くなりつつあるということかもしれません。しかしまぁもしも難しいことがあるにしても、そこは「コンテンポラリー・アートの人」に考えてもらおう。そしてこちらは部分的にでも一時的にでも「コンテンポラリーなアート」をするしかない。それは日々の生活と同義。



・それで新宿でジュンク堂と各種セレクト・ショップをちら見。それにしても今季はセーターである。あるいはニットである。去年まで人(男性)は冬場にオーバー・コートの下に何を着用していたのか全く思い出せないというほどの変化、変容、トランスフォーメー…(嘘)、しかしこれがトレンディであるということで、セレクト・ショップの店頭には、インバー・アラン風のもっさりしたニットが並びまくる。首がちくちくするのがダメな人は大変だなぁ。個人的には去年安価なものを古着屋で購入しておいて本当に良かったと思う。そして「ダッフル・コート」に「ウールのパンツ」で更にもっさりするのがトレンドらしい。たとえばそれはどのような心理を反映しているのか、とかも考えないこともないけれども、とりあえず当面の問題は自分も含めて、人はいつ「セーターを編む」ところに辿り着くのかということである。もうあと4000年くらいしたらそうなるのか。現状「自然の素材が…」とか言ってみたところで、フリースの代わりにセーターを選ぶというのは、根本的な意味での「選択」とは全く関係がない。そう考えるとやっぱり「セーターを編む」ことが今一番トランスフォー…(自制)



・そのように考えつつ21時帰宅。2日で3回も電車を乗り過ごした。納豆をかき混ぜてたらうっかり床に落とした。こんなことは初めてで、少しぼんやりしているのは自分が「フェスティヴァル後の生活」にいるからである。ぼんやりしている。それでもう12月。