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  映像研究

距離・批評・身体・家族

 
・3月15日の火曜日。記していないならば日にちや曜日の感覚が失われていくようでもある。あれから4日目に差し掛かろうとしている。その間には次々と、新しい事象、新しい言葉、新しい日常が現れる。それにしてもテレヴィジョンとtwitter。まるで不思議なのはテレヴィジョンで、あるいはtwitterで映し出される、書かれていることと、現実の出来事が「対応しすぎている」ことの違和感があるのだと思う。「ガソリンがない」「道路が混んでいる」という報道を見て、あるいは聞いて、そうして出かけたならば、本当にそのようなことが起こっている、それはつまり「この国のある範囲の人が、極めて同じような状況に置かれている」ということなのかもしれないと思う。そうして普段であれば自分のような人間は、そのような同一性を面白がったりも出来るはずなのだ。しかしなかなかそう思い続けることもできない。不思議な感覚がある。


・そうしてあらゆる人が批評的になる。誰もが当事者でありつつ、誰もが自分なりの距離感で事象を見て、聞いて、何よりも「体験して」いるのだから、それはもう生活のあらゆることが、昭和の概念だと思われていた「床屋談義」の題材となってしまう、ウルトラ批評的な環境に放り込まれてもいるのだと思う。電力会社の仕事が、官房長官の話す言葉が、総理大臣の表情が、国営放送の政治的なスタンスが、公共広告機構のCMのサイクルが、RTされた現代美術家のつぶやきが、スーパーマーケットの開店時間が、天気予報が、電気を節約するためのシステムが、あらゆる事象が、見られ、聞かれ、体験され、そしてコメントされる対象になる。ほとんど無自覚に、目が覚めている時間すべてが「リ・アクション」になっているのではないかという疑問。しかしそれはもしかしたら「日常の生活」の何かが極端になっただけかもしれないのだった。あるいは。もしかしたら。


・そうしてだから自分や、自分と同じように突如そのウルトラ批評的な環境に放り込まれた(突っ込んでいった?)他の誰かはきっと、ある瞬間、急に、体を動かしたくなるのだろう。普段よりも入念にストレッチをしたくなる。久しぶりにジョギングでもしてみようかという気になる。初めて「バランス・ボール」という物に興味を持った。歌い出しを説明するために口ずさんだ歌をサビまで歌った。「電車のダイヤが無規則になって困るから」という口実を作って、自転車がどうしても欲しくなってしまった。自転車に乗って小金井や、国立や、どこかまで遊びにいきたい。大きな声を出したい。そんなふうに思っていたところに、近所のYから「子どもをずっと家の中にいさせるのも良くない気がして」という連絡があって、明日は河原でピクニックをすることになった。計画停電の時間にピクニックをする。たまには5歳児と遊んだりしてみるのも、何よりも自分にとって良いことのように思う。


・そんな今日、とても信頼しているT夫妻が「しばらく西の方へいく」という判断をして、律儀にもその経緯らしきものを友人数名にメールで送って、小旅行のように旅立っていった。心身ともに健康であるという意味においての、クオリティ・of・ライフを追求してきた二人だから、まったく自然にそうしたのだろうと思って、何かこちらまで清々しい気持ちになった。そうしてそのような、色々なことを考慮した上での色々な判断を、多くの人がしているのに接している上でポイントになるのは「家族」ということであったりもするのだなと気づく。このような状況の中で色々なことについて考えさせられることは予想されていたものの、まさか「家族」について考えることになるとは思わなかった。そして完全に残念ながら(という注釈を/せめてものユーモアを/つけてさっきもメールを送った)自分にとっては今現在は「家族=実家」ということになるのだから、そういえば自分もこうして「しばらく実家にいる」判断をしている。そのようなことに気がつくということ。二人には「せっかくだから上関に行ってきて、どんなきれいな場所かだけでも見てきて」と伝える。


・そうして今まさにこれを記している間にも静岡で震度6強地震が起こる。「静岡で震度6」と聞いてまっさきに「浜岡!」と思うのはもちろん自分だけではなく、あっという間にタイムラインは「浜岡」の話題でいっぱいになる。止めればいいのにな。車の運転だって「(大丈夫)だろう運転」ではダメで「(事故が起こる)かもしれない運転」をしなさいって言ってたよ。でもその事故が取り返しのつかない事故になるならば「そもそも運転しない」という選択だってあり得るはずなのだ。