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  映像研究

距離について

 
・いよいよあらゆる意味で、あらゆる方面から、意味のないことを書くことが意味がないように(馬鹿らしく思えるように)ある任意のルールが優勢になってきている。意味のあることを書いても良い。それが抵抗の言葉なのであれば。全く無自覚な自身の広告であるような言葉しかない状況に対して、別の言葉・別のイメージはいかにして可能か?あるいはそんなことが現在において可能なのか?はたまた最も重要な問いは、そもそも自分は本当にそれを欲しているのか?問うてみることはできる。問うてみることは必要なはずだった。


・こんなにも世相が悪い感じになると思っていなかった。こんなにも駄目な感じ、こんなにも品性のない感じになると思ってはいなかった。しかしこれは紛れもなく2017年の自分が所属しているとされている共同体の現状だった。世相に関わる情報も、その何事かを批評する言説も、何もかも知らぬ存ぜぬで通すということもあるのだし、少なくとも登録されたSNSで何事かを反応しなくても良い。良いのだけれども。


・日々の流れの中に淀みとしての読書の時間を設ける。流れに対して淀み。簡単に、さらさらとは流されない密度の詰まった適度な大きさの石を沈めるような読書。その時間がたった1日にたった30分だとしても、その30分を継続する。というこれはいつかどこかで観た演劇の筋書きだったかもしれない。仕事前の朝のファミレスの自由な時間。自分はあの時間よりははるかに自由なからだの動きを持っているつもりになっていたけれども、実際のところはどうなのか。いずれにせよ、どのような行為であっても、日々の継続は祈りに似る。


ボードリヤールのテキストを読んでいる。かつて自分が考えて、書いたことは新しいと思っていたが、30年前に既にすっきりと、的確に描写されていた。そのことには驚かないが、しかしその、例えば30年前と現在の重なる部分と異なる部分を想像する。そこではテレヴィジョンにある種の双方向性が想定されていて、まるで現在のネットワーク環境のことを問題としているようである。事態は決定的な変化/事象を含みながらも、基本的には緩やかに進行するのだろう。主著の一冊とされる『シミュラークルとシミュレーション』を読みながら。

シミュレーションのせいで調子が狂ってしまった場の中で、何らかの行為や事件の一部始終を予測しようとしても、そこでは、確たることはすべて吹っ飛び、どんな行為も全員に利益をもたらしつつ、各方面に利益を配分しつつ事件のサイクルの終わりには消えてしまう。イタリアで爆弾が仕掛けられたとしよう。それは極左の仕わざか極右の挑発か、あるいは過激なテロリストの評価を下げ、動揺に乗じて彼らの力を封じようとする中道派の仕掛けか、または住民の安全をねたにする警察のシナリオか。そのどれもが同時に本当だ。証拠や事件の客観的追求などで事件はどのようにでも解釈できる。われわれはシミュレーションの論理の中で生きているのであり、事件の論理や理性の秩序とは何の関係もないのだ。


・ここで「距離(distance)」という言葉が浮かぶ。「事物(object)」という言葉はずっとあった。問題は疎外=スペクタクル、というようなことではなくて、包摂(inclusion)というようなことに対して、それをどう描写するか、ということであったはずだった。包摂というモードがあるならば、戦略(というかリアクション)は「距離をとる」ことになる。私には個体としてのからだがあり、そのからだはカメラという道具を持っている。わたしはカメラを使い何かの対象を撮影するかもしれない。対象の一瞬の姿を別の物質に定着させる。その行為によってわたしとも、カメラとも、その事物とも異なる別の事物が生産される。そのそれぞれの距離について。映像圏は存在しないと仮定するならば。中断。