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  映像研究

状況・事象・日常・想像

 
・14日の月曜日。起床したならば予定だった時間に停電はしていなかった。「計画停電」あるいは「輪番停電」は今朝は実施しなかったようで、しかし予定は随時変更の可能性があるとのこと。つまり「インフラストラクチャーを管理する人」が状況に応じて臨機応変に対応しているということだ。そのことは(仕事とはいえ)大変なことをしているのだなぁと素朴に思う。色々な人が色々な仕事をしている。半分寝ぼけて見たテレヴィジョンでは、イノッチというアイドルの人の番組で「アルミ缶3つとサラダ油とティッシュとアルミホイルで簡易的なコンロ」が作れると教えていた。そんな本来ならば超楽しいはずのことを、コメンテーターは神妙な面持ちで聞いている。そのような状況というものがあるのだということを知る。新しい状況に出会えば新しく気づくことがある。


・駅前の西友に出かける。とりあえず食べるお惣菜、いつまででも食べられるレトルト食品、とりあえずあると安心な米、ないと心配な気がする水、停電状況がわからないなりに懐中電灯の電池(単一)、それらの物はあっという間に売り切れていた。そうしてそのすっきりとした棚を前にちょっと呆然としてしまう。自分だってそれらの物を買うために行ったのではあるものの、結果的に買えなかったからこそ「必要なものを必要なだけ買う」ことの重要性を思う。それは例えば山に山登りに行く前の日のようなことと似ているかもしれない。そんなわけで食料もそこそこに、エンターテイメントととしての雑誌購入。この号からリニューアルした『ワンダーフォーゲル』と『現代思想』の「アラブ革命」特集。前者はともかく後者は決してエンターテイメントではないのだけれども、なぜか手に取ってしまったのだった。ちなみに実家から持ってきた鞄の中には、中沢新一哲学の東北』と、ビル・マッキベン『ディープエコノミー 生命を育む経済へ [DIPシリーズ]』と、『アルジャジーラとメディアの壁』の3冊。そして今だから読み直したい『季刊地域』の4号。それが自分にとっての「日常」なのだと思うから、「新しい日常」を見つめることに疲れてしまったときにはそれらを読みたいと思う。


「日常」つまり「自分にとってこの期間考えたかったこと」と「新しい日常」つまり「今まさに起こっていること」は、もちろん、多分、きっと少しは、繋がっているのだろうと思う。「自分にとってこの期間考えたかったこと」とは「エネルギー」と「食」について。例えば『ミツバチの羽音と地球の回転』について考えることから、T夫妻と「ハンディなソーラーパネルを実験してみようよ」と話し合っていたのはつい10日ほど前のことだったのだ。そうして今は(この国の多くの人が/あるいはそれを考えることが出来ることは考えように寄っては未だ比較的幸福なことでありつつも)一日中電気のことを考えている。あるいはまた「食料」のことも考えているのだ。そして「今まさに起こっていること」を知りたいのは、もちろんそうしないと落ち着かないから、というような理由もありつつも、しかし一方「今まさに起こっていること」の中に見えてくる、非常に細かい事象がこれから先の「新しい日常」のインフラストラクチャーを決定するようなことにもなりうると思うのだから、そのきっかけを見て、探して、考えたい。


・ここから先は完全に想像でしかない何かだけれども(本当は全部そうだ)、もっとはっきりと、超具体的に言うならば、とりあえず自分の今年の関心は完全に「上関」と「TPP」だった。それで「上関」に関しては、これは完全に望まない理由だけれども、今回の地震及び現在未だ予断を許さない福島の原発のことによって、作業を中断する可能性が出てきた。まだ喜んで良いのかどうかはわからないけれども、とりあえずそれは良い流れだと思う。しかし一方「TPP」はどうか。2月後半から議論が盛り上がり始めて、例えば最近の岩波『世界』で特集を組まれたりとか、少しずつ、しかし確実に注目が高まっていたように思うけれども、今はもちろん完全にそれどころではなくなってしまった。むしろ「大地震>食料不足>食料の輸入」という、完全に常軌を逸した理由でその協定が締結してしまうような流れがあるならば、これを阻止したいと思っているのだけれども、そのためには「食べ物は足りないかもしれないんですけど、何とか自給でやれないもんですかね」とか「とりあえず来年以降に考えませんか?」とか難しい理由を考えなければいけなくなるような気もしていて、勝手に想像して、勝手に「大変だ」と思っている。


・今はそんなことを考えている。今日はそんなことを考えた。