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  映像研究

ピクニック、あるいはバーベキュー、自由についての備忘録。

 
・3月16日の水曜日。清瀬にてY一家とHくんとともに河原にピクニック、あるいはバーベキューへ。車から降りたとたんにYの家の5歳児とHくんの家の犬はものすごい勢いで河原を駆け回った。みんなからだを動かしたかったのだ。しかし直後に強風のため、ソーセージを焼きかけたところでピクニック、あるいはバーベキューは即撤収。仕方がない。その後Y邸に移動して続きの肉を焼き、モランボン的なもので食する。食しつつ慣れない概念「計画停電」について、あるいは近隣のスーパーマーケットについての情報交換。それにしても5歳児は元気だった。柿の種を頬張る5歳児の健康さよ。5時過ぎには『ドラゴンボールGT』を鑑賞し終わって解散。



・帰ってくるとテレヴィジョンのニュースはもちろん引き続き、原子力発電所の情報を発信している。色々と思うことがある。言いたいこともある。しかし自分のそれはつぶやきごときですっきりしてしまうような種類のものでもないのだ、とちょっとだけ強い口調で述べつつも、しかし「だから言ってたじゃないか」と言うことにもしっくりこないのは、いまのこの状況では「自分が正しいかどうか」とかは、かなり、全然、相当に、後回しでも、いっこうに構わないからだ。そしてまた、個人的に気になることがあって、あらためて「福島第一原子力発電所」について検索。「ああ、やはりそうだった」とわかる。この先落ち着いたならば、必ずやこのことについて考えて、そして書こう。自分にとっても、あるいは誰にとっても関係がある「自由」について記そう。「クリエイティヴ」と「フリーランス」と「自由」について、いつかきっともう少し考えることができる。



・(追記)いやしかし、もしかすると、今こそが、それについてもう一歩考えるべきなのかもしれないとも思う。なぜならば、今一番「自由」ではないのは「クリエイティヴ」業の「フリーランス」の者かもしれないからだ。そのような人たちのうちの少なくない人は今もきっと、計画停電を「面倒なこと」だと思い(思わされ)ながら、今もオフィスで、あるいは自宅で「労働」を続けているらしいのだ。実際に原子力発電所の具合がどうなのかはわからないまでも、安心を得るために関東を離れたいと思ってもそれが叶わないことが、どうして「フリー」なのだろうか。(とここまで考えたところで計画停電が始まる……/17日AM9:20


・(追記の追記)……結局計画停電はこの地区は今日もないそうだ。病院が多いからか。不明。続き。)あるいはまた、今、とりあえず、自分は周囲の人に対して「自分はしばらく今いる場所で様子を見ることにします」という連絡をしているのだけれども、恐らくはさして変わらないことを考えているのではないかな?と思う別の人が、自分の考えを表明するときにはなぜか「俺は逃げない!」に変換されてしまうメカニズムとはどういうものなのだろうか。それがある意味での「メディア」というものが与える心理的影響なのだろうか、ということも同時に考えている。もちろん考えた結果記しているこの言葉が、(程度の差こそあれ)メッセージになることを踏まえた上で。