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  映像研究

批評的なことば、批評的なことばをずらす運動

 
・そうして4月10日は4月11日と続いている。徹夜もしていないし夜じゅう話してもいないけれども続いている。本当はずっと続いていた。考えることを続けているということについて。


・昨日10日は高円寺でのデモの後東小金井に移動する。移動した直後は8時。8時には開票。開票と同時に即当確。「当選確実」を略して「当確」。都知事選は「現職の人」があっさりと再選した。私たちはそれを知っておのおの落胆する。それはもちろんがっかりするだろう。少なくともそこにいた全員「自分が投票した人ではない人が都知事になる」のだから、それはもう積極的に投票した分積極的にがっかりしたい。しかし同時に自分はそこで「ま、そうなんだろうな」という感想も持つ。都知事は別な人に変われば良いと思ったから別な人に投票した。しかし自分が投票した人は当選しなかったし、都知事は別の人にはならなかった。言葉にするとあっさりと、すっきりと(はしないけれども)するような気がする。


・そしてその夜はその都知事選の結果を受けるかたちでも色々なことを話した。みんな落胆から色々な感想を漏らす。恐らく冷静な言葉もあればあまり冷静ではない言葉もあるだろう。冷静ではない言葉の言葉尻に何かコメントを差し挟むことにはあまり意味がない。だけれども自分以外の人があまりにも落胆しているので、何となくちょっと違ったことを考えてみたくなったのだ。自分は今回の結果に対して「260万人もの『何にもわかってない人』がいる」とは考えられない。「(自分たちより若い)20代が政治に関心がないから」だとか「『現職の人』に投票した高齢者が投げやりである」とかも思わない(厳密に言えば全く思わなくもないですけれども)。「現職の人」がいつも、そしていつまでも「現職の人」のあり続けるのは、きっとある種の「ムード」があるからで、その「ムード」たるや凄まじい。流石に弟が「ムード歌謡の人」だと思うほどに(冗談)物凄いムードが充満している。そして選挙に戻ってみればその「ムード」は力になる。


・一票は「ただ投じる」ことしかできない。「これこれこういう理由でこの人」という気持ちの「これこれこういう理由」を記入することはできない。よっぽど記入してみようかと思うけれども、それはコンセプチュアル・アートの習作のようなもので、自分にとっては意味があっても(自分にとって意味があるということは何より大切であることを前提として)結果には反映されない。それで「投じて」結果を見て「そうか」と思って明日からの生活を生きることしかできない。この方法ではそこまでしかできない。それは諦めているのではなくて「まだ早い」ということなのかもしれないとも思う。「変えたい」と思っている人は「早い」ので、いうなれば「おしゃれ」なのかもしれない。そして今この地域の選挙で「ともかく早く日常に戻りたい」「安心したい」と思っている人が多いのであれば、それはこの結果に繋がるひとつの理由かもしれないなと思う。分析することに意味があるかどうかはともかくとして、そのように思うし、そんなようなことを(も)話した。


・歴史について学びたいと思う。「現職の人」についても学びたい。現職の人について知っていることは「弟がムード歌謡の歌手」「障子の小説を書いた」ことくらいで、また自分がテレヴィジョンを見て思うことは「フォトジェニック」「まばたきが多い」「いつも『失言についての報道』をされている」ということくらいである。例えば自分が興味があるのは「若い日本の会」とは何なのかということで、自分の理解では左派ということになっている大江健三郎や、自分の理解ではポップ・スターということになっている谷川俊太郎と一緒に1960年代に「60年安保」に反対をした、ということはどういうことなのか。これは先月『ANPO』という映画を観にいったからそう思うことではあるのだけれども、原子力発電所が日本に建てられるようになった理由を考える上でも、そして今後TPP含め世界の経済について考えてみる上でも「日米安保」について、特に「60年安保」について考えることは避けられない。今まではどうしても「70年安保」「学生運動」の方がポップだからという理由で(自分が「学生のようなもの」であったからかもしれない)気になっていたけれども、今はやはりそのオリジンとしての「60年安保」の方をこそ考えてみたいと思う。そうしてその中で自分が知っている「現職の人」とは少し違った印象を発見するのかもしれない。わからないけれども。



・そうしてまた「デモ」のことに戻る。『ANPO』の上映会のときに監督のリンダ・ホーグライトさんという人は「日本では60年、70年の安保闘争を通じて『社会運動』が急速に弱くなっていった」「人の意識として『社会運動』に対する抵抗感を生んだ(植え付けられた?)」というような意味のことを言っていて、なるほどそういう部分もあるのかなと思う。「社会運動」というか「社会的な運動」はずっとあり続けているだろうが、確かに一般的には「デモ」のような「社会運動」は全然一般的ではないのだと思う。自分はその「一般的な感覚(ムードかもしれない)」をもちろん知り、そして感じつつも、意識的にそれを無視したいと思っていたのだけれども、それはその「一般的な感覚」が、「ムード」が、「空気を読むこと」が、全くおしゃれではないからという認識からだ。「おしゃれ」は「早い」から絶対的に少数派なのだと思う。だから空気を読んでいる人は絶対にデモには行かないのだろう。ただし一部のおしゃれな人がやっていたことが、より広範囲に広まっていくということはある。あるいは何かかたちを変えて「非常に一般的なもの」になる、ということだってあり得る。自分は全然おしゃれな人ではないと自覚しているからこそずっと「おしゃれ」になりたいと思っていたのだけれども……というこれは何の話だろう?


・今回の「高円寺・反原発デモ」に関して、行った人/行かなかった人から、少なくない「批評的なことば」を聞いた。行った人からは今回のデモについての「感想」にはじまって「問題点」なども話されていた。そして行かなかった人からは、そもそも「デモ」という制度(やり方?)についての「考え方」や「疑問」みたいなことも聞いた。それもまた良いのだと思う。何か出来事があったときにはそれを話す、説明する言葉が必要なのだから。しかしながら「批評的なことば」を話すときのその対象との距離が、まさにデモ(に行こうという意識を持つこと)を困難にしているということには自覚的であるべきだと思う。だから「冷静である」ことと「批評的である」ことは全くイコールではない。冷静でありながらも、あるからこそ、批評性とは違ったかたちの表現をすることも可能である。それはあくまでも(もちろん)任意ではあるのだけれども。


・デモに行かない人は(なぜか)必死に「デモに行かない(行けない)理由」を説明しようとする。そしてそこではある種の「批評的なことば」が生まれる。それはもしかしたら罠かもしれない、というこれは誘惑の言葉だ。しかしそれはさておき「必死に『デモに行かない(行けない)理由』を説明しようとする人」に対して自分は、例えば「全然気にしなくていいよ」「むしろ来なくていいよ」「いや、来る方が少数派なんだよ」と言うだろう。それは他人を煽動しないという倫理であるかもしれないし、逆にそういう誘惑の論理なのかもしれないし、おしゃれなことはおしゃれな人で楽しむことでもっと濃密におしゃれなものにしたいという自分の都合なのかもしれない。しかし少なくとも「わからない人にはわからなくていいや」という気持ちとも、微妙に、微妙だけれども確かに全然違っていて、何というか「自分はたまたまそこを担当している」という感覚である。多分。しかし何を担当しているのかは不明。


・しかしあまりぴんとこない「批評的なことば」のような話も聞く。「なぜ高円寺なのか?(=高円寺で良いのか)」それは高円寺に普段集まっている人たちが「原子力発電所はない方が良い」という共通の意見を持っていたから、高円寺で行われたのだ。「東京電力の前でやった方が効果的なのではないか」「渋谷でやった方が人に見てもらえるのでは」という人は自分で(友だちに呼びかけて)主催すれば良い。デモを主催するのは基本的に(多分)自由だし、もちろんこれからも継続的にやった方が良いのだと思う。そして今回はそのひとつとして差し当たって(高円寺はおしゃれな人が多いので/私見です)高円寺で行われたのだと思う。僕はそういう高円寺の人たち(「素人の乱」やその周囲の人たち)をずっと数年に渡って「いいなぁ」「おしゃれだなぁ」と思ってウォッチしていたのだから、きっと今回のデモにはそのノウハウのようなものが活かされているのだと思うし、はっきり言えばリスペクトする。それで自分のような、そこまでおしゃれではない(自分でデモをオーガナイズすることのできない)人は、普通にやっているデモに行く。そこには(個人的には)「批評のことば」は全く必要ではない。普通に行って、叫んだり、踊ったり、友だちと会って話したりする。時々ちょっかいを出すように興味がありそうな人に教えたりくらいはするかもしれない。備忘録にこっそり記すかもしれない。しかしその程度だ。


・これもまた先日の『ANPO』の上映のときにトークのときに(どなただったか記憶にないけれども/監督のリンダ・ホーグライトさんという人か、あるいはイルコモンズさんという人だったと思う)「デモで社会は変わらない、しかしデモは自分が変わる」ときっぱりと話していた。この言葉を肯定的に捉えるか否定的に捉えるか(きっといるだろう/理由は幾つも考えられる)は任意だとしても、自分はそのことは「可能性」だというふうに思う。デモンストレーションという「表現」を通じて、少なくともこの何とも言えない「空気」から「ムード」から自由になることができる。その自由は仮設的なものかもしれない。しかし現実の空間を伴った「場所」でもある。その場所で/その場所から考えられることは沢山ある。そしてまたその場所が別の場所を生む。ゆえに続いていく。生活も運動も表現も続いていく。