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  映像研究

ひとつの終わり

・20205301927。家で。車で初台の職場に行き諸々雑務ののち帰宅。甲州街道が予想以上に混んでいてしかし夕暮れの街の様子は見ていて飽きない。しかし退屈は退屈だからカーステで爆音でアート・ブレイキー。続いてPIZZICATO ONE。東京の初夏の夕暮れにはどんな音楽がしっくりくるか。忘れてしまったようにも思うしいつでもその「しっくりくる」感じに届かないまま今に至る。

 

・何が不謹慎なのか戸惑いながら社会的な労働を始めるこの月末はひとつの大きな区切りになる予感がしている。ロング・バケーションと言ってみたくもなるが、それが終わる瞬間には特有の刹那さがある。

 

・その刹那さとともに2020年も中腹に差しかかりつつあることに焦りを感じはじめる。数日前から「この二ヶ月」を振り返り振り返っても掴めない感覚を弄んでいるような状態が続いている。日記を継続的に書くことで自分の言葉に捕らえられてしまうこともある。その時に、誰か具体的な、自分の隣にいるような人が書いた文章を読んで、はっと気づかされるようなこともある。それが自分の業務の中にあり、ラッキーなのかなんなのか。日本語の決して難しくないはずの文章を読もうとするとなかなか進めない。書く人の意識の蠢きに乗っ取られてしまい特権的な位置から批評のような言葉を投げ返すことができなくなっている。解像度は上がっているのかもしれないが、日常生活ないし研究の作業にギリギリ支障をきたす状態になっている。これもコロナ/ロング・バケーションによる意識の変化なのだろうか。

 

・一方で「難しい文章」を読む意識のスイッチが失われているようにも思う。これは2011年の震災の直後=最中の感覚と少し似ている。放送で話される言葉やネットに書かれる言葉が現実の事象と完全に一致している(ように感じる)状態が続くから、抽象的な思考、専門的な議論が入り込む余地がない、ということなのか。「政治」のせり上がりも無関係ではないが、自分の場合はやはり「見ること」の不能が原因だとも思う。当然「生き死に」に関わる言葉を聞き、読み続けて、その強い言葉に反応することを経て、感じることが麻痺した状態でもあるのかもしれない。

 

言語化することで自分のコンディションを確認する。「人文学は元々家に篭って本を読むことが仕事なのだからこの状況に左右されず自分のやるべきことをやりましょう」という言葉は自分にとってはまったく納得しがたいが、どうだろうか。業務上求められることがあるとしても、自分はそのフレーズを吐かない。