&

  映像研究

連続ドラマを連続的に観る。

 
・寒波到来。ここから確実に寒くなってくる予感しかしない水曜日。嵐の前の、寒さの前の、業務強化期間の前の、本日は、本日も休日。先週の何曜日だかに「こんなに何もしない日も珍しい」と書いたばかりでアレなのですが、本日もなかなかに時間を放蕩してしまった。昼から夜まで『野ブタ。をプロデュース』を一挙に観賞。連続ドラマを、本来の意味とは違った意味で連続的に観る。もちろんこれも『Q10』によって考えてしまったことを別の何かに繋げるという意味があるのです。それで観た。しかし、やはり、もちろんドラマとして面白いのは前提として、だけど、たぶん、ちょっといたたまれなかった。あのドラマを観ると(全く個人的なリンクが張られている)「YUI」という女性シンガーソングライターの「生きることが戦いなら〜/勝ち負けも仕方がないね〜/そんなことくらいわかっているよ〜(うろ覚え)」というフレーズが引っ張りだされるくらいに、それはやはり00年代の殺伐とした光景が思い起こされてしまう(「YUI」と「堀北真希」が似ていると思っているのかも)。それはもちろん今がその当時と全く切り離された「別の時代」で、しかも今は全く殺伐としていない、ということでは全然ないのだけれども、00年代、特に個人的には2005-2006年くらいの「まだまだこれから殺伐としてくるよ〜」という微かな幻聴的ささやきのようなあれやこれやの表現、ニュース、言論が溢れた頃のことを、やっぱり今とは少し違った時代だと思う。



・あるいは今は「本当に殺伐としてしまって」「だけど人は実際にそのような状況になるとそれはそれで適応できる」ということなのか、どうなのか。あるいは、しかし、そもそもそのような「サブカルチャーから社会を読み取る」というような作業、思考法?では、単に「どんどん変わっていく状況に追いつくことができなくなっている」のか、そうなのか。そう考えるそんな気もしてくる。「モデルケース」とか言ってるのまどろっこしくない?っていう発想はある。しかしそれで『野ブタ』に関しては、ストーリーにしても、キャラクターにしても、「下らないと思っているゲームを(あえて)受け入れる」というような態度は、観ていても疲れる。そして、しかし、それは「疲れるから良くない」ということではなくて、だけど、だからこそ「別の方法はないものなのかなぁ」という素朴な感想に行き着く。あるいは別の方向から考えてみたならば「勝ち負けも仕方がないことをわかっている」のは、そのまま「想定の範囲内です」という00年代のトレンディーな思考法にも直結するのだけど、そこで木皿泉という作家は『すいか』というドラマにおいて「想定できることなんてないよ」「いつだって現実は想定の外からやってくるよ」ということを軽やかに示したように思っていて、強いていうならばそれが戦いを相対化するという意味での「戦い」というか、まぁ普通に言って「試み」だったように思うのです。



・それで、しかし、もともと、記しておこうと思っていたのは、全然別のこと、ではないなりに違うこと、twitterで「『Q10』のテーマは『世界平和』」とつぶやいたのに対して、Sさんから「それは『セカイ系批判』ということですか?」というレスポンスが川上から流れて(タイムのラインを)来たので、自分はその「セカイ系」という言葉の意味が、わかっているようで、全然わかっていないなりに、そのこと(『Q10』と『世界平和』と『セカイ系』の関係)について考えてみようと思ったのだったけど、前提で終わった。いつか考えるかもしれないけど、そのためには「セカイ系」についてある程度は理解しなければいけないだろうから、そしてそれはなんだかあまり気が乗らないし、さほどトレンディーなこととも思えないので(自分が何か考えるのはそれが「トレンディー」であるからなので)また別の考えになるかもしれない。ならないかもしれない。