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  映像研究

Do It Ourselves的トレンディの再・再・確認

 
・Do It Ourselves、ということなのだそうだ。Do It Yourself、D.I.Yという概念に対して、D.I.Oだ。なるほどぱっと聞いたかんじ良さそうなこの単語を「spectator」という雑誌の中から見つけたのだけれども、そのような「自分(たち)でやる」「自分(たち)でつくる」という考え方は完全にいま普通の感覚だと思います。完全に普通の感覚だと思うのだけれども、本当にそれが極端に進んでいくと、どう考えても物は買わなくなる(売れなくなる)のだろう。サーヴィス業のようなものだって、Ourselvesで可能な仕事はそのようになっていくのだろう。



思い出してみると(過去ログをチラ見すると)3年前の2007年の春には自分の周りでは既に「日本買い控え党」という単語がでていたのだった。今やるべきことは「買い控える」ことだという予感にして確信、あるいはそういうムードみたいなものを感じていたということ。そういうことを思い返したりすると、やっぱり人間は案外に野生的というか、感覚的に生きているというか、景気とかグローバルな政局とか(適当)そういうものに対してちゃんと感じ取っているのだと思えなくもない。ちらっと見たニュースとか、ポップ・ミュージックのかんじとか、新書のタイトルとか、職場の人の顔色とか、そういうものを複雑に読み取って、アウトプットしている。そのアウトプットはスーパーマーケットの籠に何を放り込むかであったりするのだと思うのだけれども。



・だから、これはもう常に確認していることなのですけれども、そういうムードを感じられるということがトレンディー(という全く先端的でない言葉であえて表現してみる)ということなのであって、書店にマルクスが平積みになる数年前に「『資本論』をよむ」と言い出した宮沢章夫という人のトレンディーさは恐ろしいほどだし、その本が出版された2005年にまた違った方向から『うさぎ!』という連載をはじめた小沢健二という人のトレンディーさだって計り知れない。そのように考えると(これは相当に偏見かもしれないですけれども)ものを売ることを目的としている人が考えている「トレンディー」ということの中心にある考え方というのは、もう少しキーワード的というか、あるブームが生まれて終わって、また別のブームがそれとは関係なく生まれて……というようなイメージだと思うのだけれども、本当のトレンディーさはそういうことではなくて、流れの中にいることを意識することだと思ったりしないこともありません。



・同じくトレンディーな人としての橋本治という人が『at』という雑誌の少し前に出た号で山形浩生という人と対談をしている中で、「(物を買う基準が『必要/不必要』から『欲しい/欲しくない』になったことがそもそもおかしい」というような意味のことを(たぶん)言っていて、あまりにも真っ当な、しかりあまりにも、そのような言葉では意識したことがないことをさらっと(かどうかわからないけど)言っていたことにも戦慄を覚える。そうなのです、それを『必要/不必要』に戻す、というか少なくともその基準を思い出させる、ということをDo It OurselvesでもYourselfでもよいでのですけれども、様々なアクティヴィティストが様々なアクティヴィティでしようとしているのだと思うし、例えば巷ですら話題になってしまった坂口恭平という人の『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』なんていう本はまさに、その気がつかせるということをしているのだな、と思ったりもする。



・全く個人的なこととして、この一年くらい、主にあまり頻繁に会う人ではない人に久しぶりに会った場合、何となく言われるのは「高尾山ってブームらしいじゃあないか(年配)」「アウトドアって今来てるんでしょ(女子)」あたりのソフトな確認作業からはじまって「暮し系とかもそろそろ飽きられてくると思うんだけどねぇ(会議室)」とかあたりから何となく重みを持って踏み込んできたかんじがあり、更に完全に先取りで「農的生活とか言ってみてもねぇ…なかなかね…(グラスを手に)」とおっしゃられるあたりになると、完全に忠告、というか親切な引き止め作業に入っているような雰囲気になってきたりするので「いや、プランターだけだし」とか何とか言ってあげることで会話のバランスを保ったりする、恐らくはそれに類する会話が東京都の東と西に引っ張り合いながら色々な場所でされていると予想されるのが、2009-10年のトレンディーなドラマツルギーなのではないかと考える今日この頃。



・しかしそこで考えるのは、たとえ「レギンス男子」(もうほとんどアウトドアと関係ないですけれども)が一斉に消え去ったとしても、「ていねいにくらす」雑誌が廃刊になったとしても、問題は「必要/不必要」と基準を想定した上で何をするか、ということであって、それは確実に「ある流れ」の中にある。そしてその流れはいろいろなかたちに変化したり枝分かれしたりしながらも止まらないのだろうなと思う。そしてそれはとても自然な流れなのだと思う。そしてその流れを見ている。