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  映像研究

木を見る場面

 
NHKで放送されている『昨夜のカレー、明日のパン』を観ている。テレビがないのでコンピュータ・ネットワークに流れ込んだそのドラマを観る。こういうときには家にテレヴィジョンがあっても良いかもと思わないこともない。いずれにせよ、それを4話まで観て、その前には原作である小説も読んでいるのだから、そのドラマを観ることから、そしてドラマを観て小説を思い出すことから、自分のことを考える。良いドラマは当然のように「ドラマについて思うこと」が「自分について考えること」と合流する。あるいは木皿泉が脚本を書いているドラマには、個別の作品を越えて似た関係性の中で似た言葉が話される場合があって、それが(分かる人には分かる、とかそういうことではなくて)そのドラマ内の世界を越えて、ちょっと触れ合うようなことがあって、それが面白かったりする。


・『昨夜のカレー、明日のパン』でミムラという人が演じている役のエピソードの感じがとても良かった。仕事を辞めてひきこもりがちになってしまった人に対して、そのまわりの人は優しい。夜の散歩の途中にふと立ち止まって交わされる会話の中で「私みたいなものもいていいんでしょうか」という問いかけがあれば、「いてよし」と即座に答えたかつてのドラマの一場面(『すいか』の教授)を思い出しつつも、しかし別の場面であれば別の答え方をする人がいるだろう。「いるものはいるんです」「少しくらい隠れてる時があってもいいじゃないですか」という言葉がそっと話される。あるいは働くことへの焦りや不安に対して別の場面では別の人物が別の言葉を話す。「誰も見てないんじゃないかな、俺たちのこと」「みんな忙しくって人のことなんて気にしてないよ」という言葉が発せられる。木皿泉のドラマの中心にある「人に対する気持ち」は、こういうふうに人物のセリフの中にはっきりと示される。そしてこの「見ている/見ていない」あるいは「隠れている」ということはたぶん「つねに見えている」ような環境にある今だからこそ、強く響く言葉でもある。


・『すいか』も『Q10』も木皿泉のドラマにはすぐ傍に「死んでしまうこと」がある。『昨夜のカレー、明日のパン』の大きな主題は超ストレートに「生きること」そのものであると思うけれども、そこには「今生きていること」、あるいは「生き残ってしまったこと」というようなニュアンスがある。生き残って「しまった」と思うこと、その理不尽な偶然に呆然としながらも、なお食べたり眠ったりすることに幸福を感じながら、色々にやり方を考えつつ、日々が過ぎていくこと。誰もがそういう感覚あるいは知覚にすっかり身を浸したところからでないと、生きることを始めることができないのかもしれない。


・ドラマは小説とは別の作品として後半の展開に期待しつつも、小説の中で特別に思える言葉があった。木皿泉のドラマには多くの「アイテム」が出てくる。日用品のような「何でもないもの」が、あるとき、ある人、ある状況においては「特別なもの」に思える、そういう仕掛けがある。けれどもそういうストーリーを進めるアイテムと人物との関係性とは別に、自然物と人物との関係、あるいは何かを見つめるということそれ自体が書かれた言葉を読んではっとした。小説を読んだのは2月で、ちょうどそのときには「物と人との境界」のようなことを考えていたのだから、その部分を読んで妙に納得するそして安心するようなところがあった。おそらくこれまでにもあらゆる歴史の中で(芸術や哲学や宗教としてあるいはぼやっとした思いとして)繰り返し考えられてきた事柄を、自分の感覚を頼りにしながら、自分の言葉で語り直すような言葉だと思う。

家事を終えた昼下がり、一樹を膝に置いて、庭の銀杏の木を見ていると、そのまま二人がその木の間に、すっと入っていってしまうような気がした。自分と一樹の間に境目がないように、自分たちと庭の風景の間にも境目はなく、全て消え去って、ただそこに在るということだけがある、不思議な心持ちだった。が、一樹がしゃべり出すと、そんな感じは消えてしまった。いつの間にか、自分は『ママ」という者になっていて、一樹は夕子の姿を見失うと、全力で声を上げた。それはそれで嬉しいことなのだが、もう二度とあの時みたいに、一樹と一体になることはないのだ、ということだけはわかった。一樹が何かを指し、覚えたての名前を得意そうに繰り返している姿は、とてもかわいいのに、寂しい気がした。
 
私は、ここに来てよかったんだよね。夕暮れの中、すっくと立つ銀杏に聞いてみる。今や、銀杏の木と自分に境目は、なくなりつつあった。モノというモノの名前が全て消え去ろうとしている。いつか、一樹を抱いて庭を見ていたときに感じた、あの不思議な心持ちだった。それは、借りていたものを一切合切、ようやく返してしまったような気持ちのよさだった。