&

  映像研究

2010年のコミュニケーションについてのメッセージ

  
テレヴィジョンを観る備忘録。二週間くらい前に新宿駅構内の広告にてその新ドラマの宣伝を見たならば、あ、「だめなどらま」ってこういうもののことを指すのだろうなぁという解釈。ほぼ毎日その広告の前を通るだけに見れば見るほどに、ああ本当に「だめなどらま」なんだろうなぁ、AKBなにがしの話題性だけで成立しているのだろうなぁコレと思っていたのだが、それはまさかの木皿泉の最新作『Q10』だということがほどなくして判明。あらゆる映像作品の中でテレビドラマ『すいか』をほぼベスト級に挙げてしまうような自分としては、AKBだろうが何だろうが見過ごすことは出来ず、土曜日に下山した後あらゆるネットワーク的なものを駆使して第一話を観賞する。



・それで観た。色々なことを考えますけどもとりあえず、テレビドラマとして相当に「なんか変」な代物であることは間違いなし。あるいは普段自分がテレヴィジョンを観ないというだけで、大半の最近のテレビドラマはこのように「なんか変」なのでしょうか。わかりません。しかし例えば『すいか』が「1999年に地球は滅亡しなかった」で始まるのに対して『Q10』は「2012年にも世界は滅亡しないだろう」で始まるという、この、『終末・断念・先取り感覚』は非常にクールないし恐怖。個人的には「声に出して名前を呼ぶこと」や「文字-筆跡の固有性(同じだけど/ひとりひとり違う)」が「ロボット」と引き合わされるあたりも、すごく直接的だけど、その直接的なところが良いなぁ(つまり普通に良いってこと)とかなんとか、丸々60分色んなところに反応しすぎて、ちょっと疲れた。あとはほとんどの人がひっかかるはずの、あの唐突な『戦争を知らない子供たち』も。



・『すいか』『野ブタ。をプロデュース』『セクシーボイスアンドロボ』に『Q10』を並べてみると、わかるような、わからないような、でも少しわかる気もする(わかった気にもなれる)流れ。それは一見「殺伐とした時代なんて通り過ぎてしまった」ように思えるということ。それで偶然にもこの数日『すいか』を観返していたのだった。そうすると、すいかはともかくあの「ハピネス三茶」というあの場所が大切で、それは完全に「アジール」。例えば誰も誰かの会話を遮ることのないような、あらゆるコミュニケーションが理想的に機能する聖域としての場所だった。しかし『野ブタ』以降のドラマではそういうアジール感が薄れていって、むしろ場所がなくても関係性の中に一瞬現れる「善きこと」をメッセージという方法を探している、ように思える。



・ちなみにそういうコミュニケーション、そしてそのコミュニケーションのあり方についてのメッセージとは、全く、一切、全然、関係ないものとして、その『すいか』のアジール性の表面的な部分だけを剽窃して出来上がったドラマが『かもめ食堂』『めがね』『プール』などの一連のアレな映画なのでしょう。という、そこははっきりさせておいた方がお互いのためになるのだろうと最近特に思う。『すいか』は「生きることが怖い、ということと向き合うことが出来れば、辛うじて今日生きることができる」というドラマ。だから別にみんながみんなそう思う必要はない。一方、一連のアレな映画達は衣食住も薄めたスピリチュアルも全部自分色(アースカラー)で統一できるだけタフだと思う。本当に。タフな人に観て欲しい。というか全然別の何かなのだよね。そして俳優に頼らない、ということが、新しく、楽しみ。それはもちろん『Q10』の話。