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  映像研究

生活がいいかんじになってきた水曜日(S・I・N・S)

 
・晴れっぱなしの水曜日。風邪気味なことはともかく、生活はいいかんじになってきている今日この頃。そういえば昨日蜜柑買ったけどりんご買わなかったなぁ買えばよかったなぁと思っていたところに、ちょうど裏に住む大家さんから「これ、りんご食べる?」と大きなりんごを2つももらった。しかも美味い。無農薬らしい。タイミング的に軽くスピリチュアル。そうしてルイボス茶を飲みつつ、おやつには先日従兄弟から貰ったおしゃれなお菓子を食べ、夕食は実家から貰った佐渡のこしひかりに、後輩からお土産に貰った五穀米的なものを混ぜて焚く。0円だ。しかも美味い。納豆だけは購入。



・庭先を見てみればすっかり全盛期を過ぎたトマトの木が、それでもまだ立っている。先月あたりからまた微妙に実をつけだして、それももう赤くなる気配はないのだけれども、どうにも処分することができず放っておいたなら、青虫のようなものに葉っぱを丁寧に端からほとんど食べられて、たまたま見つけたときなどは別のところに行ってもらったりしたのだけれども、気がつけば勝手に蛹になられてしまった。せっかくなので観察してみようと思う。うまくいけば「蛹から蝶になって飛び出す瞬間をハイスピードカメラで撮影した映像」とかも撮れるかもしれない。楽しみだ。蛹を撮影したついでに、蜜柑の皮を乾かしている様子と、こないだ磨いて15年のときを経て履かれているスーパー・スターを撮影。2010年秋の現在進行する物。そしてあと、竹が手に入りそうとの連絡。



・それで風邪を言い訳に読書をしていた。ビル・マッキベンという人の『ディープ・エコノミー』を読み終わって、何となく流れでアラン・ドレングソンという人と井上有一という人の共編『ディープ・エコロジー』を読み始める。まだ前半の「ディープ・エコロジーの何たるか」という部分を読んでいるだけだけれども、「ディープ・エコロジー」の「ディープ」ということが何となくわかってきたように思う。「ディープ・エコロジー」というと、どうにも「過激なエコロジスト」というようなイメージがあるけれども、思想としては「シャロー(浅い)・エコロジー」が「経済の発展を前提にした上でのエコロジー」であるのに対して、そうではなく、もっと根本的な価値観の変更が必要なのではないか、というようなことらしいのだった。だとすればそれは理解できる。でも「拡大自己(エコロジカルな自己)実現」論、とか書かれると、ちょっと自分のボキャブラリーにない単語なのでくらくらするのも事実です。とりあえずもう少し読んでみよう。



・そしてその合間に坂口恭平ゼロから始める都市型狩猟採集生活』を読み直したりしてみた。ちょうどtwitterで友だちが「面白いけど、その(「都市型狩猟採集生活」を実践した)場合、あとはどうやって『子孫を残すか』だな」というようなことをつぶやいていて、全くそのとおり、というか子どもを作ったり家族を作るところまで行かずとも、そもそも「都市型狩猟採集生活」には、普段使っているような意味での、友だちとか親密圏?だとかそういう概念は当てはまらないように思うので、そこはちょっとどうなのだろうと思う。そしてそういうことではなくて「都市型狩猟採集生活」は、ある極端なコンセプトであるということになってしまうならば、それはたとえば90年代に社会学者が提唱していた「援助交際する女子高生は自意識を超越している」みたいなことと似てきてしまうようにも思われるので、何となくそれは今はあまり面白くない。そして更に、面白い/面白くないという基準自体が今は退屈だ。



・そしてまた一冊の本を取り出してみる。2年前に出て読んだ『貧乏人の逆襲!―タダで生きる方法』は、こちらも「タダで生きる」ことを推奨するというコンセプトの本ということになっているけれども、実際のところこれは、0円で生きるためのサヴァイヴァル術を書いた「コンセプトの本」ではなくて、個人で消費することから他者と共有することへの変更を促すための「コミュニティーの本」であると考えられる。だからそこには、面白い/面白くないという基準ではない、別の基準も同時にあるように思う。『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』の最後には、あるいはspectatorのテキストにも「システムは変化させなくてよい」と書かれている。それはたとえば「政治」に対するボイコットのような姿勢も含むだろう。おそらくは、そのように考えた瞬間に圧倒的に「面白く」なることがある。しかし個人的にはそこで踏みとどまることに別の可能性を探したい。