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  映像研究

考える、ことを乗り越える

 

・今起こっている問題に対して「考える」ことはとても大切。しかし、考えてる間に、まさにその間にどんどん状況が進んでしまうということもあるし、むしろそのようなことがほとんどなのだとも思う。というか「考える」ことを迷惑に思っているような、つまり何かを進めようとしている人たちは、そのじっくりと考えていることこそを幸いだと思い、静かに任務を遂行するのだろう。考え終わることを待ってはくれるほどスローなライフを送っている人は残念だけどもいない。だから「考えている」うちにも、山にトンネルは掘られるし、海に原子力発電所は作られるのだろう。


・そうして「考えていた」人たちは完成してしまったそれらの新しい建築物を前にして「ああ、結局何もできなかった」と嘆くのだろう。とりあえず嘆きたい。しかし嘆きながらも、そのときその場所で自分にできることの全ては「考える」ことであったのだし、早急に「賛成」か「反対」かを決めるというような態度は誠実ではないのであって、そもそも自分は現場を見ているわけではないじゃないか、簡単に「反対」なんていう資格はないよ……などなど。その態度は「考えた」ということを根拠として「誠実さ」へと転ずるのだった。いつでも、どこでも、今この瞬間もそういう「考える」ことが行われている。というようなことは自戒をこめて。しかしそれには全然正当性がないじゃないか、という予感を言葉にしてみる。


・そのようにせっかく感じた違和感をUターンさせてしまうようなことが起こるのは、「正しい答えを出すこと」「揺るがない考えを構築すること」が推奨されていることが理由で、そのことが発せられる可能性のある言葉をとどまらせているのだと思う。だから大切なことは「正しさ」のプレッシャーから解放されることだ。もしもいつか「ああ、やっぱり原子力発電所は必要なのだなぁ」と思ったら、そのときに(少し恥じらいながら)訂正すれば良いのではないか。考えが変わることは悪いことではない。……というような思考の道筋を示しながらも、自分自身がその道筋に全く違和感がないわけではない。けれども少なくとも今は「何かを進めよう」としているのではなくて「何かを止めよう」としているのだ。むしろ「本当に考える」ためにこそ、早急に「反対」するということが、完全に、全く、誰にとっても可能なはずなのだけれども。


・ちなみに「正しさ」が、ときに変化するものであるならば、個人的に最も恐ろしいのは、その「正しさ」を先取りしてしまうことで、それがつまり「空気を読む」ことだし「想定内(と言っておくこと)」だし、しかし結局は「勝ち馬に乗る」ことなのだと思う。別に勝たなくても良いじゃないかと思ったりもするのだけれども、社会の中で発言力を持つためには、そういうわけにもいかない、というようなことなのか、どうなのか。それでそのような考え方は極めて自然になる。保守も革新も上流も下流も関係なく(少しは関係あるかもしれない)クリエイティブなどと口にする人に限って、歴史を根拠としてそのような思考を振り回すのだと思うから質が悪い。


・とかなんとか考えて携帯電話にメモしていたのは新宿のBERG。ふと隣の隣のテーブルの3〜4人のグループの人たちが「上関も高江も酷いことになっている」と色々知っていることを情報交換していて、その話し振りから、ああ、ここにも「考える」ことを乗り越えようとしている人がいるのかもしれないなと感じた。文化庁メディア芸術祭にも取り上げられた(という枕詞に何か効果があるのか/ないのか不明)宇川直弘の『DOMMUNE』で坂口恭平「都市型狩猟採集生活」として原子力発電所について考える番組をやるらしい。凄いことだ。凄いけどちょっと怖くもある。あいかしともかく考えている人がいるし、考えようとしている人ももっと沢山いる。そして考えることを乗り越えようとしている人もいる。人びとの気持ちが変化することで、何とか工事が止まらないものか、と思う。