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  映像研究

2010年のパワースポットなるもの。

 
・可能なかぎり口にしたくない単語としての「パワースポット」というものがありますが、そういえばあれは一体どういったことになっているのでしょうと考える今日この頃。「山登り」や「野外生活」について見聞を広げようと努力していると、「山登り→山ガール→ランドネ→パワースポット」とか、「野外生活→半農的生活→土地固有の文化→パワースポット」とか、もうどうしてもパワースポットに行き着いてしまう、これが所謂2010年日本の「パワー・スポット地獄」。あるいは「パワー・スポット・インフレーション」。恐る恐る手に取った「別冊ランドネ」というムックには「関東日帰りぶらり聖地」という驚愕の見出しがあるのも、現代・日本・パワースポット的カルチャー。しかし考えてみれば「ぶらり」と「聖地」に行くのが悪いかと言えばそうでもないような気もするから困りもするのだ。自分だってある種カジュアルに「アウトドア・アクティヴィティの延長にある『山伏』」とか言ってみてるのだから、それは仕方がないことでもあるのだった。(暫定的な結論)



・それで本来の意味での「パワー・スポット」はさておき、インフレを起こしている「聖地」もさておき、個人的には、自分が住んでいる場所の近くにある「何となく気になってしまう場所」に行ってみる、そこがパワースポットかどうかはともかく自分の予感に従ってとりあえず行ってみる、というような比較的地味なアクティヴィティを好ましく思う。東京都北西部の実家に住んでいた頃には、よく撮影場所として住宅街の隙間にあるような雑木林に行ったりした。そういう場所には子供が秘密基地のようなものを作ったような形跡があったり、不法投棄にしてはあまりにも生々しいような大人の秘密基地的なものが落ちていたりと、意外に民俗学的な?文化人類学的な?感覚をくすぐられることがある。それはある意味では「ニュータウンの裏側」のようなものだったと思うのだけれども、今自分が住んでいる高尾の近くにはそもそも「ニュータウン」ではない場所、かつての「集落」が時間を経て今では住宅となっているような地域があるので、そういう場所にはまた違った空間のかんじが存在している/いた、のではないだろうかという仮説のもとにフィールドでワーキングしてみる休日。



・そのようにして22日の水曜日に天気予報を睨みつつ、今年最後の夏の日かもしれないと思って、高尾からぶらり日帰りで行ける私的パワスポ散策。高尾山縦走コースとしての陣馬山、その登山口であるところの「陣馬高原下」にバスで向かうときにいつも感じていた「この街道沿いは独特の雰囲気があるなぁ」という感覚に従って、陣馬高原下から高尾までを歩いてみる。バスで約45分の道をそのまま逆に4時間ほどかけて歩く。バスがギリギリ通れるほどの狭い道、新しい道の駅的な施設、神社、神社に併設された「夕焼け小焼け発祥の地」の石碑、古い家屋、ブルーベリー農園、バラックのようなアトリエ、林業のための作業道、なぜか多いテニスコート、畑、……いろいろなものを見ながら歩く。桧原村奥多摩を歩いてみたときにも考えたのは、沿線沿いの新興住宅街に住んでいるとほとんど認識していなかった「集落」という単位を実感することの面白さ。バス停の名称にそれは残っているのかもしれない。そして集落と集落の間は人が生活する場所としては基本的に空白なのだから、アスファルトの道を歩きながら、その空白を体験しているようなところもあるのだった。



・そして八王子霊園あたりを境にして見慣れた新興住宅街の一帯に戻ってくる。真夏のような気候に完全にばてつつ帰宅。そのようにして晴れた初秋の(個人的な用語としての)パワスポ散策は終了。きっと本来のパワー・スポットに行ったならばびっくりするほど疲れが取れたりするのでしょうが、そのパワー分を差し引いても完全にばてた平日の夕暮れ。


























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