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  映像研究

 
・時の流れに身を任せて7月もすっかり終わろうとしている。この2週間は梅雨もあけて連日の猛暑。昼間まで家にいたならば温度計は36℃を指す。体温計ではないのです。35℃を超えると「猛暑日」と言う。環境が変化したならば子どもの頃にはなかった日本語だって生まれる。天気予報も普通の太陽ではない記号を必要とする。そうしていつしか40℃を超える気候を名指す言葉や記号だって生まれるかもしれない。そのようにしてとろけた頭で未来を想像する夏。とりあえずホーム・センターで扇風機を購入してみました。



・7月後半からの毎年恒例のサマー・スクーリングという名の業務も程々に、先週末は高尾を揺るがす2daysのフェスティヴァルが敢行された。それは山部YくんとWちゃんの結婚式&パーティーだったのだが、式やパーティーの間にそれはもう、本当に刹那く美しい瞬間が何度か訪れたのだった。20歳くらいの頃になにかの拍子に生まれて初めて「ゼクシィ」のような雑誌を開いてパラパラしてみたときに、「これまで出会ったあらゆるコミュニティの人が一斉に集って、自分に向かってこんなにも『オメデトウオメデトウ』と繰り返すのならば、ちょっと頭が変になってしまうのではないか」と考えたことがあったけれども、結婚式とはそういう頭を変にするための儀礼なのだということが今回よくわかった。そしてそうなってくるともうどこまで「ハレ」の場を作れるかという、ほとんど暴力的な演出だって考えられてしまうのだった。



・「ポトラッチ」とはアメリ先住民族儀礼の名称だっただろうか。もうほとんど自分の身を滅ぼすのではないかというくらいに富を差し出す贈与の儀礼。そういう物と人との密な関係、あるいはそういう儀礼を包んでいるコミュニティのあり方に熱狂的に憧れながらも、しかし現実にこの社会の中でそんな風に考えて生活することは難しいのだなとわかりながらも、それでも何か、コンビエンス・ストアや、ホーム・センターやら、アマゾン的なものなどの力を借りて、その、聖なるもの、に似ている状態を作ることはできないものだろうか、というようなことを考えていたのだった。どのような場合でも自分が普段見ている範囲に新しいものが現れてくることには特別な意味がある。



・そしてそういう場所にはきっと音楽が流れていたりもする。バック・グラウンド・ミュージックももちろんだれども、せっかくなのでその場で歌ったり楽器を弾いたり、その音楽に合わせて踊ってみたり、みんなに歌ってもらって大合唱になってしまったりすることが非常に好ましい。だからパーティーの後半は「のど自慢」と「合唱コンクール」を足して、「盆踊り」を掛け合わせたような時間になったのだ。そして自分もその「のど自慢」の一人として歌う。ピアノのMさんと「カオシレーター(?)」という、音楽の機材のことに関して全く何もわからない自分にとってはほとんど魔法使いのような小箱を抱えたSくんとトリオを組んで、あの歌を歌った。あの、どこにでもありそうな夕方の風景のスケッチから、突然自分と自分の周りの人たちのそれぞれの時間をぐーっとさかのぼったり、未来に進んでみたりするようなことを歌ったポップ・ミュージック、10年以上前から僕らがずっと胸を痛めつづけながら聞いていた、あの大衆音楽を恐る恐る歌ってみたのだった。



・そんな祭りの、ハレの日を経て再び夏の日常が帰ってきたならば、台風のような暴風雨。職場のビルの駐車場の天井の梁のところの巣のツバメは無事に巣立って一安心。それにしたって今後も業務の合間に驚くべき密度で様々なフェスティヴァルが企画されていて、暑さではなくクラクラもする夏本番。だから健康が大切だという7月末の今日の結論。野菜をちゃんと食べたい。茄子とかオクラとかが良い。