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  映像研究

交換

 
・進行する夏。緊張感のない夏。抽象度を高める夏。固有名詞が消えてゆくとともに「労働」と「余暇」だけがぼんやりと熱気に包まれる夏。とかなんとか書いてみたものの、それはそれでまぁこういう季節があるのも悪くない。ちなみに今年こそは8月上旬の自分の誕生日前後に休みを取って「山伏ツアー」に参加してやろうこのやろう、と思っていたのですけれども、諸事情からそれは結局断念せざるを得ないことも仕方なし。だからそれは毎朝高尾から御苑方面に向かうこともある種の修験道なのだと思って、あるコンディションを保つことを意識しつつ生活するのも自分にとっては新しい知恵のあり方なのだ。



・そんな日々にぼんやりと、夏(休みではない)の自由研究としての「フェスティヴァルの考古学/考現学」というようなことを考えてみるのはどうだろう。民族学的な「ハレ」の場、祭りのようなものから、現代のいわゆる「音楽フェス」のようなものまで。その、人を集める力や日常生活との関係、時間や空間の使い方についてなど、適当に考えてみる。備忘録でもリストアップでもなくて書きながら考えてみるというのも自由研究らしくて良いのではないでしょうか。例えば数日前、そういえば初めて「昭和記念公園」という場所の夏の花火に行ってみて、「やっぱり夏の花火も良いものですね。」とつぶやいてみたところ即座に「花火はそれは夏だろう」と割に普通のRTがあったりしたことから、自分としてはやっぱりこの数年「花火と言えば冬の秩父なのだ」という旨を伝えた。季節によって祭りも、花火の感じ方も全く違うということをあらためて考える。



・あるいはまた「贈与」ということも再び三たび考える。自分の考えでは、祭りやフェスティヴァルとは、贈与の場、贈与し合う場、つまり交換の場なのだ。それは手に取れる商品でもあり、水(滝に打たれてみる)とか炎(火の上を走ってみる)とかの物質?現象?もそうだろうし、あるいは音や光だって交換されるのだろう。個人と個人の交換もあれば、個人とコミュニティの間の交換もあり、そしてコミュニティとコミュニティの交換もあって、その組み合わせはきっと様々だ。そう考えると、ちょっとしたパーティーとかの「一人一品持ちより」とかは非常にフェスティヴァル感のある制度(?)だなぁと思う。その集まりにやってくるであろう他の人のことをちらっと考えたりしながら選んだりする。そういう「ちらっと考えた結果」がきらりと光って、テーブルの上に星座のように並ぶのは楽しいし美しい。



・あるいはまたちょっとハードルをあげて「一人一芸」というのは「お楽しみ会(冷静に考えるとものすごい名称だな)」の定番プランとしてあり、あるいは歴史的な大発明としての「プレゼント交換」というアミューズメントの存在も無視できない。もちろん別に無視しても良いのですけれども。個人的には「わらしべ長者」という話をあまり好きになれないのは、わらしべが確実に「より価値がある(とされている)物」にステップアップしていくことだ。わらしべが蜜柑かなんかになり、色々あって馬とかになって、そうして家になる(だっけ?)。でも本当は今日馬である物は明日には蜜柑になっているかもしれないのだ。蜜柑が馬になったり、家がわらしべになったり、いろいろなことが起こっているのだと思う。



・それらとは全く関係のない話。何故か3日くらい「少し年齢が上の方達と映画について話す日」が続いた。その結果、これはもう今までに3000回くらい気がついているのだけれども、自分は本当に映画を観ていないのだ。しかも「一般的にこれは観ているだろう」という映画についてはほとんど打率5分くらいで観ていない。それで映画と全く関係のない立場であれば良いのだけれども、全く関係がない、と言い切ることも微妙に出来なくもない……ようなアレなのでより問題なのだった。そんなわけで昨日(月曜日)は業務を終えたその足でバルト9に直行して『借りぐらしのアリエッティ』と『告白』を続けて観た。どちらも2010年の夏、日本が誇るエンターテイメント的な何か。であるとか。感想は割愛。