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  映像研究

言葉

 
・言葉を考えていた。または言葉で考えていた。終わったフェスティヴァルについて考えて、考えた事柄を言葉で表現する。難しいなぁと思いながら考えたり書いたり消したり打ったり打たなかったりして一緒にフェスティヴァルを構想した友だちに投げてみて、返答を聞いて、そうか、なるほど、と思って、また考えたり書いたり消したり打ったり打たなかったりしていたこの数日。難しいけれども言葉にしてみることで初めて明らかになること、というものが確かにある。明らかにすべきだったことも、明らかになる。構想したことのなかで、果たされたように思う事柄もあれば、果たされていなかったように思う事柄もある。そしてまたその中で、自分がどのような事柄を好ましいと思っているのかも明らかになるような気がするし、自分がどのような事柄を好ましいと思っていないのかも明らかになるような気がする。



・それで終わった。フェスティヴァルとフェスティヴァル的強化期間が終わってしまったならば、ある「言葉」もまた役割を終える。機能としての言葉はその役割を終えて、今はただまた別の意味を持った言葉の特性について思う。こっそりとノートに記される日記のような言葉があって、書いたけれども手渡されない手紙のような言葉がある。それは「何文字」「何行」と数えられることのない言葉で、もちろん「何バイト」と測られることもない言葉で、誰にも「いいね!」とは言われない言葉で、いつ書いたのかもわからない言葉かもしれない。そういう種類の言葉を、そういう種類の言葉のイメージを想像したならば、それは自由だ。そしてまた、言葉の自由さに手を引かれるように、自由そのものである状態についてイメージしたならば、季節は冬。ストーブの点いた部屋で夜更かしをする。



・まだまだ状況は言葉に追いつかない。それでも「追いつく」とか、そもそもそういうことでもなくて、ふとした時に完全に想像を超えた瞬間になることがある。全然ある。全然あるということもわかった。「驚き」そのもののような状況がある。ところでどう考えても今後「暮らしやすい社会」になるように思えない。そんなものがそもそも在ったのかどうなのかわからないから、そういう表現は定型的で且つ的確ではないのかもしれないな、と思うけれども、それを差し引いた上でもやっぱりどう考えても難しそうだ。難しそうだから、せめてその困難の種類を選り分けて、可能なあらゆる対策を講じよう。その対策が結果的に自分やその他の人を新しい状況に出会わせるのだろうし、その困難の中にも「想像を超えた<良い>瞬間」が、そして「驚き」が、あると良いな、と今はただ思う。願う。



・言葉のように自由であることとは、途中でやめることができるということで、でも以前にやめたポイントまで戻ることも自由だ。そして戻ったポイントや、戻るためにうろうろしていたときにたまたま見つけたポイントで、また再び始めることも自由だ。そのあれこれをひっくるめて「新しさ」と呼ぶ。いくつかポイントが在る。



「マウンテン・ミーチング2011」にいらした皆さんへ。

フェスティヴァルが終わって10日ほどが過ぎようとしています。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。
楽しかったあの3日間を振り返って、あらためて色々なことを考えます。
 
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例えば山登りやキャンプのような遊びの中で、何かを「面白い」「もっと知りたい」と思う時の気持ちを、
街で暮らしている日々の生活の中でも育てていくことはできないものだろうか?
そういう発想からこの集まりを考えた私たちにとって、しかし、2011年に起こった大きな災害は、
自分たちの生活を、これまでよりも大きな範囲で考え直すきっかけになりました。
 
色々な人と意見を交換する中から自然発生的に生まれたフェスティヴァルなので、
誰のアイディアということではないのですが(というか忘れてしまったことも多いのですが)、
今回のフェスティヴァルのプログラム、特に「MM秋の実習授業」や「MM夜の学校・地図を描く」には、
そういうこの約半年のあいだに考えたことが反映されていたのかもしれません。
 
手を動かして自分たちで何かを作ることや、人と人とが顔を合わせて話をすること。
それはとても大切なことで、何より「いま自分たちにとって必要なこと」でもあるのだと思います。
そして「自分たちにとって何が必要か」を知ることは大変だけれども、同時に「面白い」ことでもある。
そのこともまた、私たちは山登りやキャンプのような遊びを通じて学んだように思います。
 
そしてそのような経験を積み重ねることで「面白い何かを見つけること」に留まるのではなくて、
「面白い何かを人と一緒に作り出していくこと」へ向かえたならば、
それはこれからの暮らしを考えていく上で、大きな収穫になるのではないかなと思っています。
だから、あの時間、あの空間が、そのような場であったならば、きっかけを作った者としてはとても嬉しいです。
 
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それから当日はお会いできなかったけれど、メールでご連絡をくれたり、
TwitterとかFacebookとかで応援(?)いただいた方々へ。
今回はそういったツールもちょこっと使いながらお知らせをしてみたのですが、
思いのほかたくさんの人から興味を持ってリアクションをいただきました。
そのことは、このフェスティヴァルを構想する上でも大きな力となっていたのだと思っています。
また別の機会には、ぜひ直接会って、一緒に楽しい時間を過ごしましょう。
 
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フェスティヴァル、つまりお祭りの時間は一瞬で終わってしまいますが、
その一瞬が過ぎ去って、再びそれぞれの日々の生活が始まる、というのもなかなか味わい深いように思います。
この集まりをきっかけにして、どこかで、また新しい、そして楽しい集まりが生まれることを願いつつ。
 
 
2011年11月9日 マウンテン・ミーチング2011準備室