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  映像研究

ときに掘りおこすこと

文化をつくるのは、党中央委員会でも、ひとにぎりの芸術家でもなく、抑圧された人民自身だ。かれらの想像力の火は、まだねむっている。どこをつつけば、消し炭から炎があがるのか、さまざまな運動体は、もっと関心をもっていいはずだ。運動は大衆の想像力を活用せずにはやっていけない。
みじかい詩の一篇、ちいさな歌でも、正しい場所におとせば、火をよぶ油の一滴になることもあるだろう。表現だけでなく、表現の場も同時につくらなければならない。労働者サークル、同人誌、フォークソング。活動のかたちはさまざまある。(略)

思考のあたらしいリズムと感性のおもいがけない音階を、解放の方法としてつかむこと。こざかしい論理でさきまわりするのではなく人びととのかかわりをつくりあげるなかで、夜明けのかすかな光を感じて、花びらがしずかにひらくように、気がついてみるとそこにあること、だれも欠けることなくいっしょにたどりつくこと、それが方法だ。
「生きるための歌」は、タイの各地方にとじこめられていた村の歌を外にもちだし、たたかいの歌のあたらしいスタイルのなかに解放した。『水牛通信』でやりたいのも、そういうしごとだ。おもにアジアから、第三世界のたたかいの文化と、日本のさまざまな運動の現場からうまれた表現とのであい、そこからうかがえる、きたるべき解放文化の展望。
水牛楽団」では、運動のなかで、タイやフィリピン、韓国やチリの歌をうたい、それらの歌からアメリカ文化の影響をのこす部分をひきはがし、第三世界の歌のスタイルをつくりあげる作業。そのなかで、三里塚をはじめ、自分たちの歌をすこしずつつくっていくこころみ。
(どちらも、高橋悠治水牛楽団のできるまで』より)


・何度目か図書館から借りてきた本を読んでいて、「ううむ。」と思うところあって備忘録。思うところというのは当然というかなんというか、この一ヶ月のあいだ考え続けている、小沢健二の『ひふみよ』というコンサートについてであって、楽しい音楽、考えさせられてしまうような朗読、そしてそれらをあのタイムラインに構成したスリリングな展開。それは「知的なエンターテイメント」として完成しているように思えたのだけれども、しかしそれだけでなくて、あのコンサートには自分にとって何か大切なヒントが隠されているように思い、そう思うので考え続けている。「チョコレートを舐めるように」、大切な記憶を持ちながら、またいつか行われる(かもしれない)コンサートを待ち望んで生活することは、もちろんそれはそれとして良いのだけれども、ではその「チョコレート」をつくるための考えを、どのように発想して、展開していけば良いのか。


・そこで高橋悠治の「水牛楽団」という仕事を掘りおこして、それと照らし合わせながら考えてみているのだった。上の文章は1980年に書かれた文章のようだったけれども、そこには『ひふみよ』との共通した認識を見つけることができるように思う。それはつねに「たたかい」はどこかの場所で起こっているということ。そして、その「たたかい」への抵抗を含めて、何か変化を起こそうとするならばそれは「人民の/下からの/普通の人びとからの」行動であり運動であるだろうということ。そして(これが何より興味深いのだけれども)方法として選ばれるのが、音楽、特に「歌」であるということ。(ちなみに「アメリカ文化の影響をのこす部分をひきはがし」というようなところも…ううむ。)


・『ひふみよ』を一緒に見に行った友だちと共通した感想だったのは「なんか、歌唱指導しに日本に帰って来たみたいだな」ということだった。かつてのヒット曲の中の、おそらくみんなが知っているであろう部分、ラップできる?部分、あるいはこんなところまで?というような部分も、みんなで歌う。そしてあたらしい歌詞をみんなで練習して、何度もそのフレーズを繰り返す。舞台の上では、聴かせるためではなく「率先して歌う人」としての小沢健二がいるというイメージ。そして本編のラストでは、オープニングに歌った曲を再び演奏し始めて、みんながその歌をうたっているのを確認したならば、その様子を焼き付けるようにして(主観ですけれども)安心した「ああ、もうこれで大丈夫だ」というような感じで舞台を去っていく。そこには「歌をうたう」ということの持っている意味、のようなことを知っている、という雰囲気があった。非常に大袈裟な表現かもしれないけれども「歌をうたうことの『ほんとうの』意味」というようなことを考えている雰囲気が。


・「言葉がコミュニケーションの道具である」とかいう整理された考えではなくて、同じことを「声にする」ことの大切さを感じるという意味では、タイトルの『ひふみよ』についても、「数が音と結びついている考え方で数学が発展していったならば、この世界はどんなふうだっただろう」というような意味のことを話していたし、やっぱりそれは「音」であり「声」についてのことなのだと思う。……というようなかんじで考えいます。