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  映像研究

雨が降っている

 
・「雨が降ると自分に対する審判が先延ばしにされたような」という、この、これは、確かあの雑誌の、あの連載の、文章だっただろうかと考えている。考えることから思いを巡らせる。雨が降っている。雨が降っていると5月とは言え少し寒い。ファンヒーターをつける。毎年灯油を購入する最後のタイミングが難しいけれども、今年は少し多め(遅め)だったのだから、梅雨の時期に季節が戻ったような寒波的な気候になっても十分に対応できるだろうと考えている。そういう部屋にて。


・ここ数日はGWのGWらしい時間を横目にみながら、本を読んだりしながら、色々な準備をしている。準備をする4月の終わり。


・5月5日の読書会のためであれ、自分の勉強のためであれ、いずれにしても「今という時代はどういう時代なのだろう」と考えて、考えを広げたり、考えをまとめたり(全然まとまらない)するために、本を読んだり、インターネットをしたりしているけれども、総じて思うことは、何だか難しい時代らしい、ということで、どうしたものだろう。「自分のようないい加減な者が心配するほど社会の状態が良くないということですかね」とか言いたい。言いたいのか。言いたければ言うだろう。色々なレベルでの「閉塞感」のようなものが、色々な、具体的なシチュエーションで、ふとした瞬間に、隣の人と話をするようなときに、ふっと浮かび上がってくることがある。何か感じることがある(not スピリチュアル)。途方に暮れるようなときもある。


・タイミング良く、だか悪くだか、このような時に、よりによって「哲学」という、自分でも何だかわからないし、他の人に向けてその説明をするのが難しく、ましてや有用性?を納得してもらえなさそうなことを勉強してるだなんて……と考えていたときに、某著名な批評家でもあり作家でもある人がtwitterで、文学や哲学について「長い間生き残っているコンテンツ」というような解釈の可能性を書いていて、ああ、そういう考え方もあるのかな、と思ったりもした。


・色々なレベルでの「閉塞感」のようなもの、というときに、それはあくまでも自分が感じている「感」なのだけれども(勘なのだけれども)、そのような予感とともに何かを考える。予感を傍らに置いて何かを考える。予感が発するものを受け取りながら何かを考える。そして時には「今の社会が」と言ってみたりもするならば、その「社会」の、国であれ、他の国との関係であれ、なるべく全体像を想像してみながら、その中のある部分に、思いついた(あるいはどこかの本に書いてあった/ことを展開させながらとりあえず作ってみた)構図を当てはめてみて、そのはまり具合を確認してみたり、ずれていれば修正してみたりする、というようなことをしているのかもしれない。


・『「わからない」という方法』という本は橋本治という人が書いた本で、自分はその本を読んだのか読んでないのかわからないけれども、そしてだからその本が示す「方法」というものが、どういう方法なのか、今この状況では定かではないけれども、その題名だけを転用するように、その「わからない」とか「わからなさ」ということを、自分の文脈で考えてみる。あるいはまた、自分が何か価値を置いているものの根拠として「わからない」ということを挙げてみることもできるかもしれない。「わからない」は「(まだ)わかっていない=未知」ということなのか。あるいは「わかることがない=反復の可能性」ということなのか。いずれにしても、そのような意味での「わからなさ」に、例えば「豊かさ」というような形容詞をつけてみる、しかしつけた途端に、その価値は相対化されることが容易に想像できる。そういう「わからなさ=豊かさ」の価値を相対化するような視線にさらされ続けている、という怯えのような感覚が、例えば「閉塞感」の原因のようなものだと考えられるのではないかな、と思っている。(事情がわかっていないなりに)楽団とか文楽とかの助成金を減らされそうになるとか…。


・文化、というそれ自体実体のないものは、しかし、実際は、それ自体実体があったりなかったりする「お金」によって運営されていたりして、文化に関わっているとされている人は「冷遇されている」と感じている一方で、別の人は「不当に優遇されている」と感じている(感じている?考えている?)のかもしれない……、という、しかしそのこと自体(文化と税金と公の予算の話)については自分のような人は、それほど考えるようなことではなかったのだった。今考えているのは、例えばそのような具体的なシチュエーションで、ふと浮かび上がってくるような、社会の状況、人々の気分、のようなことについてだった。


・何かを考えることは、それが他の人と対立したり、論争になったりするかどうかはともかくとして、それ以前に、考えを「立てる」ということの中にすら「たたかい」のようなところがあるのだろうか。何か自分が価値があると思う考えを「立ち上がらせる」という、そのことにどういう「たたかい」があるのだろう。


・誰もが負けるような戦いの中に誰もがいる、というイメージを、頭の中から消し去ることが出来ない。それは経済的な「勝ち・負け」ということではなくて(それもなくはないけど)、むしろ「誰もが屈辱の中で生き続ける(生かされ続ける)」というイメージの方が近い。ある視点(いくつかある)から全体像を眺めてみたならば、それは単に、歴史的に普遍的な当然のこととも考えられてしまうのだけれども。そしてそのようなイメージに対して「誰もが勝っているし、誰もが祝福されているよ」というような、一挙に状況を反転させてみるような見立ては、しかし、この現実を前にして、あまりにも「見立て」過ぎるというか、あまりにもおしゃれすぎるというか、あまりにもアップ・ダウンが激しすぎるというか、長期戦をたたかい抜ける気がしないというか、そういう「方法」を採用すること自体が不安材料であるようにすら思える、という、そういう意識を今は持っている、という、これは何の話だろう。今、自分が、何か別の方法と、何か別の言葉を必要としているということなのか。どうなのか。


・誰かが発する言葉を見ている。誰かが発する言葉を読んでいる。誰かが発する言葉から多くの感覚を感じ取っていて、その感覚はそれによって何かを判断する直前の、小さな裁きを行う直前のような感覚。誰かを裁きたくない。しかし何かは感じている。そして判断につながっている。誰かが発する言葉の内容よりも、その発する方法を見ている。方法が含んでいる意識、つまりその人が内容以上に何をメッセージしているか、そして「何をさせようとしているか」に拘ってみたい。


・2012年の雨のよく降る日に不安(と第六感)について記してみたかったのかもしれない。「不安について記す」ということ自体が、自分にとっては新しいことで、不安について記すその方法を探したいと思った。不安や怯えが通底するような時ならば(そしてそのような時が続いていくように思うのならば)、それを一挙に/一瞬で反転させてしまうのではなく、正しいと思う方法でそれを記述してみよう。不安と怯えを傍らに置いて考える。そして、しかし同時に「わからない」ということの豊かさ、と言ったときに感じるような感覚、体を温めるような言葉や感覚も、持ち続けよう。そのような感覚を「もう使い物にならなくなった」として忘れてしまうのは、それはそれであまりにも早急だし、そもそもそれほど簡単に自分自身の連続性を手放すことはできない。