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  映像研究

大衆芸術と限界芸術について考える

 
・6月7(月)-8(火)日で広島へ行く。もういいんじゃないの?と自分も含めて誰もが誰か思っているのだけれど、それでもいろいろな巡り合わせから結果的に、相模大野、神奈川につづいて三度目となる小沢健二のコンサート『ひふみよ』と、広島市現代美術館で開催中の都築響一の展覧会『HEAVEN』を目的とした6月の小旅行。「2010年の大衆芸術と限界芸術を考えるツアー」という自分的コピー・ライティングは完全に言い訳で、しかし言い訳ではあるけれど完全な出鱈目でもない。芸術というものがあらゆる人の生活の中で「機能」する可能性があるのか、どうなのか。ファイン・アートのヴァリエーションとしてではない芸術。投資の対象にはならない芸術。そういうものの持っている力を見てみたいと思う。



・広島へは中学の修学旅行を除けば、ちょうど3年前の「いとこ会」の宮島旅行以来で、市内に宿を取って歩き回ったりするのは完全に初めて。そのどの町とも微妙に違っているように思える、街の構成?を面白く感じながら歩く。路面電車が走っていることと、そのことも理由であるかもしれない車道が広く感じること、そして川が流れ山に囲まれているロケーションは京都とかでもそうなのだけれども、建物のかんじはちょっと南っぽいというか乾いたかんじがする。夏は暑いのだろうなと思う。7日は東京駅でSMDくんと合流してのぞみに飛び乗り、広島に着いたらホテルにチェックインして原爆ドーム平和記念公園へ。修学旅行の中学生と完全にバッティングして、彼/彼女らの「平和について考えたりするのダリぃ/っていうことにしておきたい」的な微妙な心理から来るのか何なのか異常にやんちゃかつ不謹慎な発言に冷や冷やしながら(先生は大変だなぁ)、もう戻れない時を思う。倍くらいの歳をとった僕らは普通に「核…」と思いながら黙って見る。



・そしてそののち会場の(元)広島厚生年金会館でSさんとその友だちと合流。そして開場。開演。演奏。終了。三時間近くの舞台はあっという間に終わった。普段あまりライブというものを見に行かず、まして同じ公演を数回見に行くなんていうことはない自分は(しかし自分に限らず普通あまりしないのではないかな/ジャニーズ的なファンとかヴィジュアル的な系とか以外は)数年前に宮沢章夫の『ニュータウン入口』という演劇を二回観たときに初めて、同じ演目でも一回一回違った印象のパフォーマンスになるのだということに気がついて、そのことが本当に強く印象に残っている。そして今回の『ひふみよ』でもそれは全くそうなのだった。賛否両論あるらしい?(いつだってなんだってそうだろうけど)曲の間の、朗読?MC?お話、言葉、について、自分はあれを『ひふみよ』の背景が見えてくる重要な要素だと思うのだけど、たとえばその「言葉をしゃべる」やり方ひとつをとっても、どういうスピードで、どういう声の高さで話すのかによって、伝わり方は違ってくるように思った。それは「どこそこの会場のパフォーマンスが良かった/悪かった」ということではなく、ただ「違っている」ということ。そしてそれは会場が違っているのだから当然照明も、そして音楽も違っている。



・というようなことを考えたり話し合ったりしながら小雨降る広島を繁華街へ移動してお好み焼きを食す。当然美味くて、ビールを進めながら、大きなお好み焼きに突入しながら、更に過剰な解釈を交えた「パフォーマンスについてのトーク」及び「この数年のオルタナティヴ・カルチャーについてのトーク」は進む。ちなみに入って最初は気づかなかったけど周りのテーブルのお客さんすべて『ひふみよ』帰りだったということに途中で気づいて、店員のおっちゃんまでもが「ああ、小沢…あの『カローラ』の…」とか「なんか異常に坊っちゃんっていうあの人だよねぇ」みたいな話題が始まって「違うんだよ、いや、違うくもないんだけど…うーん」みたいなかんじで鉄板の上には十数人のカルマが立ち上っていた、かもしれない。三回観て、解釈について話し合う、なんてまるで高校生の時のエヴァンゲリオンみたいじゃないか、いやかなり近い受容の仕方をしているなぁ、そもそも「解釈」ってなんだ、とかなんとか夜中までSMDくんと話していたら、ちょうど「SPA!」の今週号には「小沢健二村上春樹エヴァ…90年代から抜け出せない30代サブカル男子」みたいな特集があって、どうして他のメディアではなく「SPA!」にちょっかいを出されるとこんなに微妙な気持ちになるのだろうかとちょっと思う。