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  映像研究

移動する。

 
・3月24日(木)。ホテルで目を覚ます朝。ここは広島。数日ぶり(とはいえ3日くらい)に朝のテレビニュースを視聴。昨日の夕方にtwitterのTLに流れてきた「東京の浄水場からヨウ素が検出されて、子どもには飲ませないようにとの指示が出た」というニュースがじわじわと効いてきている。怒り。悲しみ。恐ろしさ。しかし主に放心。このようにしてきっとこの先もまったく想定してなかった出来事が次々に起こるのだろう。朝のニュース番組ではイノッチというアイドルの人が相当に攻めた発言をしていて女性キャスターにたしなめられていた。国営放送の朝の風景。祝島の夜のしゃべり場では4人で話していたのだった。「食べるものと水、それがダメになると大変なことになる」と。そうして話していた次の日には本当にダメになってしまう。その間にも余震的揺れ。広島では感じない揺れ。


・せっかく広島に来たのだからとホテルから歩いてすぐの原爆ドーム及び原爆資料館へ。「原爆ドーム」のすぐ近くに「中国電力の本社」があるということは、普段はまったく関係のないことで、というか今も別に直接何かの関係があるわけではない。わかっていてもそこに何かの関係を考えてしまうのが人の世の常だ(適当)。思えば去年の6月には三度目の『ひふみよ by 小沢健二』を観るために広島にやってきて、その前日にこの場所に来ていたのだった、ということも思いだす。そのときは『うさぎ!』との関係など考えつつ見上げた原爆ドームが、今日はまた違ったものとして見える。


原爆資料館にて「放射能の恐ろしさ」のコーナーに少しだけ人が多いような気が、しないでもない、ようなそれは完全に主観。ガラスケースの中に放射性物質とセンサーがあり、それをハンドルで近づけたり遠ざけたりして放射能の量を計測する展示の前でぼやっと立っていたならば、ジャンパーを着た人がすぐに来てくれて丁寧に説明してくれる。「こちらがいまニュースなどでも話題の放射能です」と言ったか言わなかったか、その記憶は定かではないけれども、説明を聞きつつも聞けば聞くほどぼんやりとしてしまう。前に来た時と同様に海外からの観光客(と思われる人々)も多いけれども、そのような人にとっては「ヒロシマ」と「フクシマ」はどのように区別され、どのようなニュアンスを持って発音されるのだろうか、とそんなことを思う。


・ランチに「広島風つけ麺」を食した後、岡山の祖父母&伯母さんの家に一晩泊めてもらえないかと連絡。ちょうど従兄弟が広島にいるらしく夕方車で乗せてくれることになる。持つべきものは親類なのだった。そうして空いた時間は広島のタリーズ・コーヒーにてインターネット。このような状況で旅行をしていると公共のインターネット(フリー・アクセス的な電波)について非常に敏感になり、商店の入り口の自動ドアに貼られたシールが気になるのだが、たいていそれは「グルなび」とかなのだった。そして広島はタリーズ・コーヒーが最高。「みんなの党」は世にも恐ろしいけれども(世にも私見です)こういうときにはシアトル系でも仕方がない。どこの街にも「BERG的な喫茶店」があるわけでもないし、あるのかもしれないけれども(いや、きっとあるのだろう)それをスムーズに見つけることは難しいのだった。


・そうして岡山へ。親戚の歓待を受けて東京の家族の無事を伝える。久しぶりに家で眠る。


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・3月25日(金)は移動する一日。岡山で目を覚ましたならば、朝から祖父母からの「もっと食べなさい攻撃」に応戦。庭にやってくる鳥を眺めながらお茶を飲んだりする超現実的な時間を経て、昼前には「お世話になりました」「また来るよ」と移動する。


・神戸へ。山部でもあるAちゃんは神戸に帰省中だったので、連絡をしてみたら時間が取れて神戸で途中下車。そういえば自分は両親が大阪と岡山出身なのにも関わらず(だからこそなのか)その間に挟まれた「神戸」という場所には降り立ったことすらなかったのだった。そうして神戸らしく昼下がりの世にもおしゃれなカフェにて飲食。東京での地震直後のことから、少しだけ疎開のニュアンスを含んだ帰省の日々のことを聞き、こちらは上関(祝島・田ノ浦)で見たこと、聞いたことを話す。神戸と言えばやはり95年の「阪神大震災」という天災があり、まさにAちゃんの通っていた高校のある地区には「仮設住宅」というものが建っていたという話。そしてその二年後には同じ場所で今度はまた全然違った種類の「人災」も起こる。そこは「須磨」という場所なのだった。そういう場所の関係を含んだ年表について想像したことがなかったので非常に新鮮でもある。色々な話をする。


・京都へ。そのまま在来線で東に移動して京都で途中下車。完全に思いつきで京都にいる従兄弟に連絡してみたところ、夜少しならば時間が取れるとのこと。忙しい時期なのに感謝。京都でもフリーにアクセスできる電波を探した結果四条河原町の「上島珈琲」へ入り、インターネットしているところに従兄弟が来る。某野党(なんと書くべきものか)の推薦?公認?で京都府議選に出馬を控えている従兄弟にも、何となく上関原発の話を振ってみる。某野党なくらいなので(?)当然「原子力発電所」には反対の意見を持っているのだけれども、話は「どのようにして段階的に原子力発電を脱していくことが出来るのか」という、極めて冷静かつ具体的なものだった。色々と意見交換。そしてだからこれは生まれて初めての「陳情」でもある。


・東京へ。23時の夜行バスに乗って東京に戻る。戻ってからのことを想像しながら移動する。


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・3月26日の土曜日は東京に帰ってきた一日。夜行バスでぐっすりと眠れることで自分は人生を得しているのか、あるいは、と考えつつ新宿駅到着。朝の京王線を下ってホームタウンであるところの高尾へ。何だかすべてが久しぶりだ。久しぶりの自宅を中くらいの大掃除&インターネット&昼寝。夜は東小金井のカレー店INDFJへ。SMDくんともそういえば地震以来の再会。去年の秋には一緒にフェスティヴァルを発起してみた間柄だからこそ、今の状況に対しても色々と話せることがある。そうして偶然にも大学の同級生も来たならば、更に話題は広がる。しかし明日からの業務に備えて早めの帰宅。久しぶりの(西)東京の夜。