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  映像研究

時間が流れると、変化する。色々なものが。例えば身体が、言葉が。

 
・時間の流れに加速がついてきたような感覚。毎年思うことですけれどもこれって一体なんなのでしょうか。忘年シーズンの新宿へと業務に通う週末。街の様子が騒がしいのは単純に人が多いからで、一度に視界に入る人間の数によって何か特別な心理が生まれるような気がしないでもない。そういう意味では毎年秩父夜祭で沢山の人の波に揉まれながら、たこ焼きを食べつつ山車に声援を送りつつ花火を見たりすることが、自分の年末的なモードのスイッチになっているのも妙に納得してしまうのです。そう、しかしそれはさておき年末のこの年末感よ。あるいは年末進行と呼ばれる集団心理よ。その最中で考える日々の生活のこと。教育機関で労働をしていることもあって、可能であれば毎年のこの時期に行われる行事、その中での生活をなぞろうと試みるが、当然のようにそれは去年以前と「全く同じ」ことにならないというのは一体どういうことだろう。同じ意味のことを言葉で伝えようとしても、同じ言葉を使ったのでは自分の意識がその言葉についていかないような感覚とは何か。それはきっと身長も体重も髪の長ささえもあまり変わっていないのに、何をかっこいいと思うかとか何を面白いと思うかというような感じ方や考え方が変わったことによって、微妙なからだの動きの変化が生まれて、そのことによって、ずっと似合っていてこの先もずっと着るつもりだった洋服が何故か全然似合わなくなっているような、そのような変化なのだと思う。そんなときにボーナスをじゃらじゃらもらって裕福な方であれば、おう、いい口実が出来たとばかりに新しい衣料品を購入して、自分自身の「新しい身体のイメージ」を探り当てようとするのだろうけれども、そのような金銭的な余裕がない、あるいはそこで新しい衣料品を購入することに躊躇いを感じてしまうような自分は、持っている洋服の袖や裾を折ったりとかして「新しい身体のバランス」を探そうとするだろう。そしてまたは、使い古してもう着ることもないと思っていた洋服をクローゼットから引っ張り出してきて、新しいイメージを持ってその洋服に袖を通すだろう。腕を伸ばして、足を広げて、自分の身体が変化していることを知ってバランスを取るだろう。だからそれは、言葉もそうだ。声に出してみて、色々な大きさや色々な高さで発音された言葉が、自分の考えていることと照らし合わせてしっくりくるものかどうか、確かめたい。質問をしている振りをしながら自分に対して言葉を投げかけたり、そのまた逆のようなこともある。時間の流れに加速がついていくような感覚で、そのような日々に色々と試してみる。