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  映像研究

逃走線としての書くこと

 
・時間が飛んだ。時間は消える。前に書き残してから半月が経ったのだと思ってひやっとする。締め切り前のほとんど呟きのような言葉からしばらくの時間が飛んで/消えて今。すっかり一年が終わりかけていることの驚き。年末年始の年末年始感は毎年物凄い。毎年物凄くその感じに救われていると感じる。正月に年をとることの方がぴんとくる。ある共同的な幻想の中で生活が展開されているのだということをはっきりと感じる。


・AppleMusicの小沢健二満島ひかりの番組は面白かった。面白いと同時にこうしていつもどんどん別のことになりかわっていく小沢健二という人の姿勢に凄みを感じる。10ヶ月が経って『流動体について』の「宇宙の中で良いことを決意するくらい」というフレーズが響く。Olive in POPEYEも。やりたいことをやりたいときにやりたいようにやっている。あるいは「やるべきこと」を。媒体が変化しても、言葉が変化しても、体が変化しても・・・その変化を見続けるためには、なにを拠り所にすればよいのか。


・色々な本を買い、色々なイベントに行きつつ、全然足りていない。インプットもアウトプットも。


・月の中盤には自分の中で年末のイベント3daysがあって、お酒を飲みながら人と話すことを楽しみにしていた。そういう場はひとつの「拠り所」になる。「言葉が通じる」ということは人間にとってとても重要なのだなということを、たとえば業務で留学生と話しをしているときとかにも感じることがある。逆にいうと「言葉が通じない」ということはすべての不安の根源にある。(いま喫茶店の隣では男性と女性がフランス語で話をしていて全然聞き取れないことでテキストを書くことに集中できたりするのは別の話)


・というところで「話すテクノロジー」という発想になるのだけれども、そこには抵抗もある。話すことをテクノロジーにしてしまって良いのだろうか。テクノロジーに対してほとんどの人(ほとんどの場合)は「ほどほど」というところに落ち着くのだけれども、しかしテクノロジーを知った上で「突き詰める」という態度と「忘れる」という態度がある。自分としては、大抵、ほとんどの場合、忘れるに向かいながらの「ほどほど」にバランスするだろう。突き詰めたくはない。リラックスをしたいし同時に失敗をしたい。失敗をすることで有限であることを維持しているような感覚もある。それは別の話か。


・一方で「文章を書くこと」については、さらに、もっと、修行をしたいとも思う。かたちがあるものだから。「形があるものについては修行的でありたく、形がないものについては忘れたい」これはどういう、なにの、反映なのか。中断。