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  映像研究

山菜を採る日

 
・春は花見。夏は川へ。冬はスキーと一歩間違うとただのイベ(ント)・サー(クル)になり兼ねないくらいに、多岐にわたる「山部外伝企画」の第X弾。春風も生温い四月である今回は僕のたっての要望で実現した「山菜ミーチングvol.1」。もうしばらく前からどうしても「山菜」を採ってそれを食べる、そのような経験をしたかった。そしてその一連の出来事の中に何があるのかを知りたかった。そんな、山菜と出会うためのアクティヴィティを、あるいは山菜のために集う僕らを「山菜ミーチング」と呼ぶのです。



・思い出すと小学生くらいの頃、毎年GWになると父親は学生時代の友人数人と連れ立って「サンサイ」というものを採りに東京の西の方の山に行っていた。車で行き、おもむろに停め、登山道を歩く。「おっ」とか言って急に斜面を登ったかと思うと薮の中から、タラノメ、ウド、ゼンマイ etc...と呼ばれる謎の草を見つけ出したならば何故か妙に誇らしげ。喜び勇んで持ち帰った大人たちはそれらを主に天ぷらなどにして食して世にも楽しそうな宴をしていた(子どもたちにとっては何が楽しいのかよくわからない)というおぼろげな記憶。電話でその頃の詳細を聞いたところ「あれは奥多摩の××××山。××××から登山道を行けば良い。」とのこと。先人たちの教えを乞うことは大切だ(乱獲防止のため伏せ字)。



・前日は準備として普段の山登りとはちょっと違ったバック・パッキング。そこで何よりも大切で必要なのは「籠」。山菜を採った場合にそれを入れるための「籠」。前日夜に八王子中を探した後に高尾駅の100均にて「籠」購入。この場合ビニール袋なんかじゃ全然駄目。なぜならばそれでは「ku:nel的な写真」が盛り上がらないからだ。山菜を死ぬほど採って、ついでに「ku:nel的な写真」も死ぬほど撮りたい。籠に山菜が溢れる写真に『やまの、おいしいが、届きました。』みたいな明朝体のフォントを死ぬほど入れたい。この「ku:nel的な写真」へ向かう衝動は何だろう。ここまで来ると「ku:nel的な写真」を撮らずして何のための「山菜ミーチング」だとすら思う(本末転倒)。それはさておき普通に「双眼鏡」を持っていけば良かったと後で少し後悔。




・そんなこんなで4月の23日は木曜日。早朝の中央線を勇んで下ったスーパー・フリーランスな僕、山部部長、Wちゃんの3名が本気で向かうは奥多摩の某所。駅から目的のポイント近くまではバスで行き、そこからはひたすら登山道を歩く。籠を握りしめ歩く。いつもの山登りとは違い「何かを探しながら歩く」こと自体に初めは異常な興奮でテンションは最高潮。しかしすぐに飽きてダウナーな山歩きになる。とりあえず目的としている「タラの芽」はない。まるでない。「山椒」しかない。「山椒」をもぎ取る。「山椒」は手で揉むとココナッツみたいな匂いがすることを知る。闇雲に探す。古着屋で山のようにハンガーにかかったTシャツの列からオシャレな1枚を選びとるような視点の移動。



・ちなみに「タラの芽」によく似ている(ように見える)が「タラの芽」とは全然違った植物(通称:フェイク君)があります。葉っぱの先の方の様子は似ていますが、全体的に「タラの芽」よりも赤みがかっていて、根元は細く、何よりも木の幹に刺(とげ)がないのが「フェイク君」の特徴です(一瞬だけ実用アウトドア系ブログを目指してみた)。



・道中は木漏れ日の中を歩きながら3人同時に思い出した小沢健二のOliveの連載「ドゥワチャ」の話。「キノコ狩りは探しているうちにキノコに目線が合ってくるものなのだ、そのように世界には色々な『騙し絵』があるのだ、みたいなアレだったよね、あの回すごい良かったよねー」みたいな話。そしてそこから「タラの芽」を見つける視点(通称:タラの目)を得るためには一体どうしたらよいのだろうかと考えつつも、ただぼんやり歩くだけの午前中。そのようにして午前中は結局全く何も採れず(山椒以外)昼ご飯を食べながら、ここまでの反省を踏まえて作戦会議をする。



・そして更に登山道を登り続ける午後。午後2時「これはもう今日は無理なんじゃ…」「やっぱり温暖化の影響で…」「人間が欲のままに乱獲するから…」とやや諦めかけていたところに部長が奇跡的な「タラの目」を発揮して1本目の木を発見する。おお!凄げぇ!!と驚きながらもそれ以降はその「タラの木」が生えていた周囲の様子のイメージを頼りに探し始める。乾いていて/埃っぽい/少し砂利で/根元には少し土があって/日が当たっている斜面。特別に一種類の植物ではなくて/杉なんかは絶対ない/色々な植物が生えている斜面/中くらいの背の高さの色々な植物が生えている斜面。人間の手の届かないゾーンから生えた/手が届かないからそのまま背を伸ばせた/ひょろっと伸ばした木が少し周囲の植物より頭を出すように伸びた/乾いているほどに刺のある/伸びた木の先の方に芽を出していて…とイメージしながら歩いていると本当に2、3本目の木があった。高いところに生えた芽は、落ちていた木を引っ掛けて横に引っ張って(絶対に折ってはいけません)、先の葉っぱが丸まって柔らかそうな部分だけをもぎ取る(全部刈り取ってはいけません)。



・しかしもうこうなってくると「タラの芽」を探すためにはとにかく「タラの木」の気持ちにならなくてはいけないということが自分のからだと頭でよくわかってくる。ちなみにこれは全くスピリチュアル系の話ではありません。「自分がタラの木だったら、ここには生えたくないと思うだろうなぁという感覚」、そのような「タラの木の感覚(通称:タラ感)」を自分のからだと頭で想像することはだから「(タラの木を)見つける」というよりも「(タラの木に)なる」というイメージに近いということを何よりも備忘録しておきたい。そのようにして午後の後半は「タラの木」に「なる」ことが本当に楽しかった。楽しすぎて時間を忘れそうになったところで残念ながらタイム・アップ。結局4本の木を発見。うち3本の木から5つの「タラの芽」を頂いた。いただきます。






















・写真を見返すとわかること。ずっと葉っぱを見ていたということ。葉っぱの先端の芽の色とかたちを見ていた。次第に視点は葉っぱではなくて木に移動する。そして何故か崩れた石。乾いた山肌としての石または岩。そして水。山が水を濾過している様子。何かにピントが合う瞬間の記録。