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  映像研究

植物のようなこと

 
・最近家の庭部分(庭そのものとは言いづらい)の植物の様子を見ていることが多い。このストレリチアはまだ荻窪に住んでいた頃だから多分2006年くらいに、ホームセンターにて数百円で購入したのだったけれども、ずっと育ってきていたのに、今年の冬の間ずっと放っておいたせいですっかり枯れてしまったように見えたので、鉢から出して、しかし「捨てる」というのは植物に対する行動として謎な気がしたのだし、根っこの方を見てみると何だかまだ生きてるようにしか思えなかったのだから、妥協案として庭部分の端に埋めてみた。


・そうしたら新しい芽が出てきた。かつて40〜50cmまで伸びていた葉っぱはすべて枯れ落ちてしまったけれども、死んでいなかった。まるで死んだように見えていたものは、生きていた。硬い芽が柔らかい力で伸びようとしている。そういう植物が育ったり育たなかったりする様子を見ることは不思議だし楽しい。種から芽が出ることや、土に差したら根が張ることや、蔓がどんどん毎日伸びていくことは、大抵良いことのように思われる。色んな花だがオンリーワンとかそういう話ではなくて、同じ木から伸びた葉っぱが沢山あっても、その一枚一枚の違いを見ることはとても楽しい。もちろんその隣の同じ種類の木を見ることも楽しい。その楽しさについて考える。



・ここしばらく、というのは2ヶ月とか3ヶ月とかの間に、色々なことをぼんやりと思ったり人と話したりする中で「人が何かをつくること」についても考えていた。それは「クリエイティブ業」とか言うときのそれではなくて、もっと全然広い意味で「行動」とか「仕事」とか、あるいは「考える」ことも含めた何かで、そこで自分がいま興味を持つような「つくること」には相当にはっきりとした基準があるような気がしたのだから、そのことを考えてみたならば、それは「著作権がない」ということかもしれないと思った。それは「行動」とか「仕事」を独占しないこと、そして「考え」を「所有/私有しない」ということかもしれないのであって、その意味において、本質的に「自由である」ということでもある。


・たとえば、あのひ・あのとき・あのばしょで、誰かと話し合っていたのは「このような状況における芸術の意義」というようなもので、あるいはまた「そもそも『芸術』の定義ってなんだろね」というような美大生みたいな話を夜中までしていられるような幸福過ぎる謎の状況があった。その時、その場所では、それぞれの人が色々な基準を持って、自分の考えを話したり話さなかったりしたのだけれども、少し時間が経って、個人的に今思うことは、ある人が何かをつくっているのを見て「あ、それ良いね」と思って、同じことをやろうとしてみるような「行動」や「仕事」しか、もしかしたら自分はもう、根本的には興味が持てないかもしれないということだ。逆に言えばそこで「あ、それ良さそうだけれども同じことするのはばかられる感じだな」と思うような「行動」や「仕事」に、一体どういう価値があるのか、それが今素朴に謎だ。


・「コピーライト」に対する「コピーレフト」について調べてみよう。あるいはトレンディーなワードでもある「シェア」ということについてもいつか必ず考えるはずで、また「おばあちゃんの(別におばあちゃんじゃなくてもいいけれども)知恵」というようなことについても考えることになるだろう。それらはある「道具のようなもの」を用意するということなのか、どうなのか。その「道具のようなもの」によってつくられた成果は、つくった人それぞれが所有することになるのは、それはまったく良さそうだけれども(もちろんそれを人にあげても/人と共有しても構わない)、しかしその「道具のようなもの」それ自体を所有することが許されて良いのだろうか。それも今素朴に謎だ。


・先週のDOMMUNEの『都市型狩猟採集生活』で坂口恭平という人が、福島や関東圏からの避難から始まった熊本のゼロセンターという場所の「新政府」の話をしていたときに、自分が一番良いなと思ったところは「全員が、総理大臣」というようなことを言っていたところで、その考え方は完全に今だし本当だと思う。その行動や仕事は、あるコミュニティを「政府」と名指すことにおいて「コンセプチュアルなアート」みたいなこととも理解できたりするのかもしれないけれども、同時にそれが別の「アーティスト」と呼ばれる人が行う行動や仕事と決定的に異なっているように思えるのは、たとえばその「新政府をつくること」を、誰か全然別の人が「あ、それ良いね」と思って隣の県で同じようにやったとしても、別にそれはそれで良さそうだからという点に尽きる。そのとき「新政府をつくること」は、きっと新しい道具の使い方のようなものを示していると思う。



・「学ぶ」は「真似ぶ」から来ているのだし、良いことはどんどん真似していこうよ、とかそういうことですらない。今は「生きるのに必要なこと」について考えているのだから、人が生きるために必要なことは、誰もそんなに違わないように思う。そしてそれを分け合うことが難しいのだったら、その難しさに疑問を投げかけるより他に、することはない。



・そして植物のようなこととしてイメージしてみる。植物が育ったり、広がったりするイメージで捉えてみる。種を蒔くことも、木を植えることも、株を分けることも、すべては許されている。そのような営みとしての「つくること」を意識して、そしてそのために必要な「道具」や「技」を他の誰かと共有すること。生きていくために必要な「知恵」を分け合うこと。その良さをイメージする。そうしていま目の前にある植物を見つめながら、ふと考える事柄は「可能な限り遺伝子を組み替えたくないな」ということとか「F1種とか頭がどうにかなりそうだな」とかいうことで、それは完全に現実の、イメージではない、本当の、生きている、死んだように見えても相当に生きている、どこにでも生えている、次々に生えてくる、あの植物の話だ。「つくること」と「植物の話」はそうして繋がっている。