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  映像研究

三寒四温どころか

 
・雪が降った!三寒四温どころか「七寒無温」で要するにめちゃ寒い日々。ダウナー気圧とノー日照でぼんやりする日々。先週のあの長袖Tシャツの2日間は何だったんだろう…と、夢見るような回想のワンシーン。しかしながらそのような気候の変化に対しては、おおむね肯定的に、そしておおらかに受け入れたい今日この頃。きっといつだってこのようにして適当な振れ幅で揺さぶられながら、新しい季節はやってくるのだ。あるいは揺さぶられつつ気づいたときにはすっかりそれになっているだろう。というようなことで納得してみたい。つまり自然だ。


・それにしたって秋に高尾に引っ越して以来、この期間連絡をくれる友達の挨拶は「どう?降ってる?」とか「氷張ってる?」とか「窓開く?」「冷蔵庫不要?」「スキーしてる?(←していない)」「流氷来てる?(←意味がわからない)」とかそのようなものが多く、みんな「高尾=僻地ネタ」が大好きだなぁ(と言う僕も嫌いじゃないよ)。ちなみに多摩西部には「都心と八王子だと気温が5℃違う説」「多摩川を越すと一気に3℃寒くなる説」「『寺=じ』ってつくたびに一度気温が下がる説(「高円寺」「吉祥寺」「国分寺」「八王子?」うまいこと考えるなぁこれ)」などなど色々ありますが、今日の降雪に関しては、中央線を上っている限りにおいて、さほど東西の差を感じなかったですよ。実際のところはどうだったのでしょう。



・本日はそのように中央線を上り昼から業務。ランチは某小金井で途中下車をして、西東京一押しのカレー屋さんにてカレーを食べる。そして同時にこのカレー屋の店内の一角に併設された本棚でしっとりと営んでいる古書コーナーをメンテナンス(書籍を補充)する。ほどほどな売り上げと売れている本の傾向が興味深し。そして自分とこの本棚の関係はなんか家庭菜園みたいだと思う(本という種を蒔くと売り上げに応じてカレーが値引きされる)。菜園ならば、季節も移り変わるのだから「春っぽい本(?)」を置けたらいいなと考えたりもする(雪の中)。



・業務帰りの新刊書店にて、2009年(私的)最初の事件としての、高橋恭司『煙影』を見て、言葉にしがたい思いを抱えながら帰宅。写真なんて誰が撮ったって同じなんじゃんと思ってた、そんな中学生の頃に何となく気になったのは、雑誌マルコポーロの表紙のアイドルのポートレート。それ以来、小沢健二のソロ・デビューの時のアー写だとか、サテライト・ラヴァーズのジャケット(懐かしいなぁ)だとか、中谷美紀の写真集だとか、もちろん作品集だって欠かさずチェックして、それでファッション雑誌で「これはもしかして…?」とピンときた写真は、やっぱり「高橋恭司」という人が撮影したものだった、というのは懐かしい90年代のおもひで。


・8×10の大判のニューカラー的な写真の質感は、クールでもドライでもスウィートでもあり、いずれにしたってそれまで見たことのなかった東京を表していた(と思う)。そして、しかし、恐らくは数年ぶり(10年とかかも)の『煙影』はと言うと、風景の切り取り方こそ、以前と通じる部分はありつつも、まったく違った方法の、まったく違った写真で、端的に言うならば(あくまでも個人的な印象としてですけれれども)「わからない写真」でびっくりした。そしてその「わからなさ」は例えば佐内正史の写真とも、また中平卓馬の写真とも違った「わからなさ」で、これまた端的に言うならば(あくまでも個人的な印象としてですけれれども)「痛々しい写真」のように思えた。


・その痛々しさは、数年の作品を発表していなかった時間(「沈黙」とか言われてしまう)と無関係ではないかもしれない。いずれにしても、写真家が撮影する写真だって、当然のこととして緩やかに変化する/し続けるのだと思う。「わからなさ」が「変化」によってもたらされた場合、その表現はたぶん「面白い」。