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  映像研究

声が途切れる・息をつく・そして静寂が訪れる・息を吸って・声を出す

 
・持続する声を出していて(あー)吸った息を全て吐いてしまえば声は途切れる(あー…あ)、そしてそうならばまた静かに息を吸って(…)、そしてまた声を出し始めるだろう(あー)。そのようにして言葉を話す。文字も書く。何かを考える。


・気がつけばずいぶんと遠くまできてしまった、あるいは、気がつけばずいぶんと思いもよらない環境に身を置いている、と人はいつどのようなタイミングで考えるのだろうか。他の人からすればほとんど変化していないような場合でも、自分にとってはほとんど目眩がするくらい「遠くまできてしまったなぁ」と思って呆然とすることもある。それは主観だ。しかし自分はそのようなことを考えない。考えないようにしている。なるべく考えないようにしたい。気がつかない。距離を測らない。過去のある地点を考えない。考えたくなったら考えるだろう。だから「考えない」と思うくらいでちょうど良いと思う。


・それはスローガンだった。そのようなスローガンを掲げつつ、思いもよらない出来事だけが続く。そのスローガンを掲げたり降ろしたりするだろう。固有名詞が飛び去って、写真を撮影することがなくなって、そして概念が残った。すっかり枯れてしまった観葉植物の葉をすべて取り去って、種のような苗のような部分を庭に植えてみたら、再びそこから上に向けて伸びようとする。そういう力をある時期ただ見つめていたようなことから得た何かがある。不思議。


・例えば(例えばと言ってどんなことからでも考えを始めることができる)「家の中」と「家の外」を分けない、という意識からどのような発想を育てていくことができるか。荻窪のアパートに住んでいたときにはわからなかったけど(意識しなかったけど)高尾の平屋に住むことでわかったこともある。例えば目が覚めてすぐに部屋の湿度や温度や光に注意が向くようになるということは、賃労働的な意味でお金を稼ぐこととは一切関係のない、しかし自分にとっての大きな財産であると思う。それはきっと荻窪のアパートに住んでいても可能なことだったけれども、ある意識を育てていく上で「より適切な環境」というものがある。だからその環境に敏感であるような勘だけを手放さないようにしたい。


・そういえばしばらく前にtwitterで何気なく天気についてつぶやいたならば、新潟に住んでいる知人の方から雪についての返信をもらって、その方はずっと東京に住んでいて新潟に移り住んだのだから、そのような感覚の変化のようなことが感じられたことが良かった。そしてそのようなオンライン上での、メールでもない、手紙でもない、不思議な言葉のやり取りを通じて、あたらめて「ここは東京なのだ」と思う。ここは、東京都、八王子市、高尾という町ですと声に出してみて、はっとすることもある。


・何か新しい発想を得たいと思いつつ、気がついたならばもう夕方じゃないかと思ったとき、ここは東京都八王子市高尾という町なのだから、大抵八王子か立川という町へ行くだろう。例えば立川のグランデュオに入っている「オリオンパピルス」という書店に行くだろう。本を見たり雑貨を見たりする。谷川俊太郎という人の『写真』という本があった。写真と、写真についての言葉が書かれていた。そして飯沢耕太郎という人が巻末に文章を書いていて、そこでは『VTRーサントリーニ島にて』という詩について触れていて、それも良かった。


谷川俊太郎という人がその『VTRーサントリーニ島にて』という詩を朗読するのを聴いたのは2008年の1月の大阪だった。夜行バスで大阪に行き2日かけて『ビデオランデヴー展』を鑑賞。イベントを聴きに行き、その合間に祖父母がかつて住んでいた家を訪ねた。今はもう建っていない家を訪ねる。その場所に立ってみる。その場所で写真を撮ってみる。そういうことを今まであまりしなかったけれども、そのときはなぜかそういうことをしてみようと思った。そういえばあれはもう5年前のことだった。不思議と記憶について。


・(植物だとすれば)毎日一本ずつ根を断ち切られているような心境の今日この頃。新しい季節を新しい気持ちで迎えたい。