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  映像研究

11月の奥多摩トレック・2DAYS(鷹ノ巣山編)

 
・行楽の真っただ中の連休に、さて僕らならば何をして過ごそうか。と考えて山部の3人(その日都合が良かった)は奥多摩の『鷹ノ巣山』という山に登ることにしたのでした。早朝に家を出れば満天の星空。そして天気は非常に快晴。おのおの日常の業務をやり過ごして集う休日、その目の前の早朝には何か特別な視覚がある(と信じるのだった)。


奥多摩駅のコイン・ロッカーにテント一式を預けるというズル・ギリギリの装備で出発したならば、限界を超えた混み方のバス(臨時便)にて山の北東部に移動して『鷹ノ巣山』に登り始める。「『鷹ノ巣山』ってイメージ的には頂上のまわりをビュンビュン『鷹』が飛び回ってる風景なのだけど、頂上でおにぎりとか食べても大丈夫なのかしら」とか言いながら登る急登(急な登りってことです)。なぜそのような心配をしたかと言えばそれは、数年前に鎌倉は由比ケ浜の海岸沿いのコンビニ(確かセブンイレブンだった)にて「買った直後の肉まんをトンビにかすめ取られる」という失態of失態を経験しているからなのであって、当事者以外の人にとって「食べ物を動物に獲られる」ことはなかなかポイントの高いエンターテインメントだと思う。




・紅葉が適当に色づき、杉とかはぱっと見特に変化はなく、ブナ、ナラ?系 は相変わらず超・格好良く、朴の木(ほおのき)の葉っぱを見ては「味噌を焼く」ことを想像してお腹が減った。「山」と言っても遠くから見たならば、それはつまり「木」がモリッと集まっている様なのだからそれは「木を見ている」ようなものだとふと思う。「木を見て森を見ず」とは言うものの、「森」を見たいのならば差し当たって「木」を見るより他に方法はない。そしてそれは「山を見る」時もしかりだ。木を見ながら山を歩き(面白いから)、それを抜けて頂上に立ったならば多くの場合そこには「自分が登った山以外の山」が一網打尽に見えまくるだろう。これらは何のメタファーでも、格言でも、自己啓発的なものでもなく、視点の移動の記録であって、あるいは「ポエミー」です。




・そして下りにはそれとはまた全然違った山の部分のあんなことやこんなことを発見する。今回身体感覚として知ったことのひとつに「落ち葉が敷き詰められている様子を眺めていると人は眠たくなる」というものがあり、特にそれが「おにぎりでお腹いっぱいになった昼下がり」だった場合はもう最悪だ。そこに寝転ばずに歩き続けられるかどうかは、山部としての何かを試されているようだけれども、今考えてみれば別にそこで寝転んでしまっても良かったと言えば良かった。人は睡眠の誘惑にとても弱い。逆光は90年代っぽい写真。尾根を歩く。








・そして予定を少し遅れて下山したならば今夜はテントサイトにて「焚き火部vol.0」の活動までもが開催されるのです。かつて学生の頃に幾つもの私的・トレンディードラマを生んだ里であるところの奥多摩氷川キャンプ場にてビバーク。早くも薄暗くなる夕方5時過ぎにテントを張り終わったならば、火を焚く。なんだかんだと偉そうなことを言ってたけれども今回は薪はキャンプ場から購入して(vol.0なので許してほしい)、あるいは今日の相棒であった「拾った杖」を火にくべる。ホイルを巻いた「さつまいも」と「じゃがいも」を適当に放りこんだならばその合間にバーナーで「炊き込みご飯」を炊き、あるいはこちらが、かつて西東京オシャレ番長にそのレシピを教えてもらった隠し球「ホット・ワイン(グリュー・ワイン)」などをつくり始めると、負けじと山部ボーイ&ガール、Yくん&Wちゃんはおもむろに隠し持っていた「オイル・サーディン」を取り出して応戦。焚き火の炎をじっと眺める、そんな暇もなく飲む。食べる。


・そうこうしていると「さつまいも」「じゃがいも」はすっかり美味しくなっている。あるいは適当に投げ込んだ「りんご」も、まるで「気まぐれ風デザート」みたいな顔をしてまかり通る何かになっている。あまりにも美味くて爆笑。あまりにも美味くて写真撮るのを忘れる(動画も)。そしてこれは完全に陳腐な、そしてあまりにも定番のイメージ言説だけれども(あえて言わせてもらいたい)「もしも宇宙人がこの様子を空から眺めたら…」どう思うだろう?と考える。「地球人というのはこのように調理をするのだ」「地球人というのはこのように余暇を楽しむのだ」「地球人というのはこのように享楽的なのだ」「リンゴって美味そうだなぁ」「秋って良いなぁ」などなどと考える。


・そしてまたそれは時に宇宙よりも遠い、例えば東京の中心のようなところへ向けて送った、季節の変わり目を伝える絵はがきのようなものでもあると考える。