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  映像研究

新作小説をたくさん読む一週間(あくまでも自分比)、あと生活につい

 
・「すばる」の松本圭二(初小説?)の『あるゴダール伝』を読む。
全然予備的な情報もなく、それはきっと「小説のような詩のような、現代的な…」ものなのではないかと予想していたけれども、少し考えてみればそれはきっと詩でやればいいことなのだという気もするし、いずれにしても、それは読みやすい文章で書かれた所謂ひとつの青春小説だった(というような感想を持った)。そしてこの小説に書いてあることをそのまま(というのもわけがわからないけど)自著伝のようなものとして読むとしたら、詩というものはかくも適当な都合から生まれるもので、そうであるが故に業が深い、というか尊い、というか、潔い、というか…(というような感想を持った)。


・「新潮」の宮沢章夫の『返却』も読む。
こちらも特に予備知識もなく読んだつもりだけれども『ニュータウン入口』を観たりだとか日々の「富士日記」も読んでいたこともあり、というか基本的に八王子周辺について一定の共通理解(?)を持っていたこともあって、その風景はとてもイメージしやすかったし、尚かつ「普段はあらすじを追いかけることが精一杯」な小説に明るくない自分も、ストーリーを理解しつつ、文体?とか、構成?のようなものにも意識を払いつつ、心地よい違和感を感じながら、そしてそこに意味を読み取ろうとしながら読み進められたのも、それもこれも著者の別の著作を色々と読んでいたからなのでしょうか。わからない。けれどもやっぱりどこかに流れている「80年代バブル的なもの」と現代の「なんでもないできごと」との距離感もまた興味深い。

『フリータイム』 作・演出:岡田利規
出演:山縣太一 山崎ルキノ 下西啓正 足立智充 安藤真理 伊東沙保
六本木Super Deluxe


・そしてチェルフィッチュの『フリータイム』は14日(金)の19:30からの回を観に行ってきた。
もちろんそれが刺激的な作品であることはそうであるに違いはないのだけれども、それでも少し期待しすぎていたのか?『三月の5日間』や去年冬の『ゴーストユース』の印象があったので、それとは違うということを観劇中ずっと思っていて、しかし終わってよくよく考えてみれば、そのような変化もそれはあり得ることなのだろうと思うし、より丁寧なメッセージの方法を提示しているとも考えられる。そして、しかし、であるからこそそれは「『場所』を表現している」とか「『状況』を表現している」とかいうざっくりした定義すら難しい(ように思ってしまう/そして多分それで良いのだと思う)作品だ。


・あるいはまたこの作品が題材としていることが、最近読んだ「新現実」という雑誌の東浩紀という人と大塚英志という人の対談の中で話されていて気になったフレーズ「(70年代生まれの書き手たちの)生活保守思想(化)」というようなものと関係があるならば、自分はそこに対してとりたてて(語感のせいかもしれないけれど)ポジティブな印象を受けないけれども、しかし例えば自分が現在「時間とお金をやりくりして山に登ること」に何かを思うことや、そしてその裏に多分ある「温泉でも行こうなんていつも話してる(けど結局行かない/けどその「いつも話してる」ことが何かのモティベーションとして機能する/ことで日々の生活を継続する…」ようなことはもう全然、色んな意味で少し違うような気がして、むしろ「当然のこととして温泉に行く(行きますけど何か?)」ことを『モード』として選択するような意識があるならば、ああ、これはまるで自分にも関係があることなのではないか、とも思われるような気がしないこともありません。



・雨の後の晴れの日は花粉が凄いようですね。洗濯物が外に干せないようなのです。